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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
  • ※現在は、販売しておりません。
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    「究極の身体」を体感してほしい

第3回 (2008.7.22 掲載)

(前回からの続き)高岡はなぜ、スポーツではなくマイナーな武道なんてものをやっているの

まあ、この頃から私は人間の身体の機能というものを冷静に考えていたのでしょう。そしてここで注目してほしいのは、私が体幹の股関節まわりの身体運動機能に目覚めていたということです。ちなみに私自身はその頃から股関節まわりの腸腰筋やさらに奥の横隔膜筋、あるいは腹横筋、内肋間筋、外肋間筋などという、いずれにしても体幹の深層の筋肉を意識して鍛えてきたものですから、脚力自慢のその友人を相手にこうしたいたずらをちょっと仕掛けてみたのです。1965年頃の話です。

さて、話がちょっとそれてしまいましたが「高岡はなぜ、スポーツではなくマイナーな武道なんてものをやっているの?」という話に戻りましょう。この会話の趣旨はきわめて重要で、原著において私がスポーツをやらない理由というのをはっきりと述べております。それは「20世紀はスポーツの時代。しかし21世紀は武道・武術の時代」というくだりです。私はこういう考えを明確にもっていたのです。もちろんここでいう20世紀、21世紀というのは象徴的にいっただけです。質問者の友人はすぐさま「21世紀になったらスポーツが衰退し、スポーツ人口と同じだけ高岡のいう武道・武術の実践者が現れるのか?」と聞いてきました。

私はすぐさま「いやいやとんでもない。そういう意味じゃないよ。いまのようにスポーツだけが身体運動、スポーツだけが身体運動文化だと思われるほど隆盛し、スポーツだけが無反省に注目される時代から、スポーツだけじゃないないんだと気づき、むしろスポーツよりももっと奥深いところまで到達している身体運動文化にも人々の目が向くようになり、なかにはスポーツもやるがその奥深い身体運動もやるという人も出てくるんじゃないかな、という意味さ。そしてそのスポーツよりも奥深い身体運動文化の代表が武術、あるいは武術に非常に近い形での武道ということなんだよ」と答えたのです。

私がなぜそういう考え方を持っていたかというと、これもはっきりしています。まず、人間の身体運動能力を比較してみたとき、20世紀のスポーツの頂点よりもかつての歴史上の武術の頂点のほうがはるかに高いところにあったからです。つまり歴史上の武術家たちのほうが、人間の身体に隠されていたメカニズムを奥深いところまで、より使い切っていたと考えられるからです。そしてもうひとつ、スポーツはこれからどんどんどんどん高度化していくだろうと思えたからです。東京オリンピックの時点で「スポーツはもうこんなものでいいや」といって止まってしまったとしたら、私も困惑したでしょう。でもスポーツは例の筋力開発のような単なるエネルギー論から脱却して、身体の使い方という方向にどんどんどんどん高まっていくはずだと私は確信していたのです。

考えてもみてください。人々がこれだけスポーツに夢中になっているのです。一説によればオリンピック中継の視聴者が30億人ともいわれる時代なのですから、それだけ多くの人がスポーツに夢中になっていれば、いずれ必ずもっと本質的な身体の使い方というものに人々が目を向けてくるはずだと思っていたのです。だから21世紀に入る頃になれば、あのかつての武術の達人が到達していた奥深い身体の使い方というものにスポーツも目覚めてくるだろう。そしてスポーツがそうしたことに目覚めてきて、自分の身体のなかである程度本質的な身体の使い方ができてきた人たちが現れてくると、その人たちには武術の達人達が体現していた身体に隠されている奥深いメカニズムが見えてくるはずです。

肝心なのはこの点です。たとえば美味しいものに興味がない人は、グルメ系の情報誌などは見ないでしょう。でも美味しい料理にある程度目覚めてくると、まわりで「あそこのイタリアンの新メニュー、美味しいんだって」と話をしている人がいると、自然に聞き耳を立ててしまうものです。同じようにスポーツ界がちっとも高度化しないで停滞したままなら、武術などに関心がもたれる日はこなかったでしょう。でもスポーツがどんどん進化を続け、自らのなかから身体の深遠な機能への目覚めがちょっとずつ起きてくれば、さらに高度に目覚めているかもしれないものに関心が向くのは当然といえるでしょう。

私は当時、このようなことを考えていたわけです。だから「21世紀は武道・武術の時代」という発言の背景には、'64年の東京オリンピックの頃から世間が武術家の身体機能に目を向けるまで、40年近くはかかるだろうという私の読みがあったというわけです。ですから「当分オレの時代はこないな」ということも覚悟していました。

というわけで、この2つの理由によって私は「21世紀は武道・武術の時代」という考えを明確に持っていたのです。だから不思議にも当時の私は高校生ながら非常に落ち着いていられたのです。たとえばスポーツ大会などがあってもまるっきり無関心なのです。若いですからふつう運動能力に自信があるヤツは活躍したいと思いますよね。でも私は興味がないのでほとんど出場したことがないのです。

じつは私には当時とっても好きだった女の子がいて、その彼女からスキーに誘われたことがあるのです。よりによって直接その彼女から「ねぇ、英夫ちゃん。私たちといっしょにスキーに行こうよ」と声をかけられたのです。ホントに好きな女の子からスキーに行こうよ、と誘われたのですよ。さすがに私も心が揺れましたけどね。でも最終的に私はその誘いを断ってしまったのです。というのも「もしスキーに行ってしまったら、その間は武道・武術の稽古ができなくなってしまうじゃないか」と考えたからです。私だって若かったので、それは複雑な気持ちでしたよ。でも正直いうと「スキーなんてチャラチャラしたスポーツ、やってられるか」という気持ちが強かったのです。ご存知の方が多いと思いますが、その後私は40歳からスキーに取り組み、いまでは一流のスキー選手をゲレンデで実際に滑って指導するほどのスキーヤーになったのですが、当時はそんな青臭いことを考えていたわけです。

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