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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
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第32回(2008.02.10 掲載)

究極の身体の中心とレギュラーの身体の中心

さて、いよいよ多重中心構造論のまとめに入りたいと思います。これまで見てきたとおり、身体は中心がいくつもある多重中心構造です。そしてまた身体意識も多重中心構造で中心がいくつもあったはずです。では精神の中心はどうでしょう?

この問いがこの項のハイライトですので、みなさんもぜひじっくりと考えてみてください。答えは「精神も多重中心構造」か、はたまた「精神だけは中心が1つ」という二者択一です。この場合、精神の中心が2つ以上あれば、それは多重中心構造になってしまうので、中心の数が1つか、それとも2つ以上の多重中心かということで考えてみてください。

いかがでしょう? ヒントをひとつ差し上げます。先ほど「身体は多重構造」という話をしましたが、これは誰の身体の話でしょう?

じつは他の誰でもなく“究極の身体”についての話なのです。原著(『究極の身体』)でも説明したように“究極の身体”には「中心」がたくさんあります。そしてその「中心」がじつに機能的に連関しあっているのです。身体意識の「中心」も“究極の身体”にはたくさんあって、それが機能的に連関しあって見事なパフォーマンスを発揮します。

しかし、拘束されたレギュラーの身体というのは、2つの股関節にしても周辺の筋肉がガチガチに凝っていて、骨と筋肉が渾然一体といった状態になってしまっています。その結果、股関節のようなヒンジ構造的な「中心」の代表ともいえる部分でも、“究極の身体”に比べ大幅に中心性が薄まってしまっています。同じように仙腸関節は渾然として癒着して、腰椎まで含めて、原著でも紹介したとおり「拘束腰芯」という一塊の状態になっています。するとまたこの部分も中心性が曖昧になってしまいます。

したがって、先ほどから説明してきた「骨格は骨格でまわりの筋肉から明確に峻別され、骨格と骨格の間が自由に動くべきときは動き、動かざるべきときは動かない」ということが前提になっている意味での中心構造はなしていないのです。

というわけで、ふつうの人のいわゆるレギュラーの身体では、「中心」そのものがなかなか成立しにくいのです。

では身体意識はどうなっているのかというと、やはり身体と同じような状態です。たとえばレギュラーの身体には「センター」がありません。あると考えたとしても天地にきれいにつながった一本ではなく、途切れ途切れのズタズタの「センター」になってしまっています。逆に肩こりや腰痛のときに肩や腰に不快な意識があるように、身体が凝り固まっているところには、拘束性の身体意識が非常に色濃く固まっているのです。

つまり、“究極の身体”が持っているような中心構造を失わせる身体の様相というのは、身体意識にも見事に反映され、結果として互いに反映しあっているのです。だから結果として身体がガシガシに拘束されてメチャクチャに癒着しているならば、身体意識もガシガシに固まり、メチャクチャに癒着し、でたらめになってしまいます。

ということは、精神の「中心」について考えたとき、そうしたレギュラーの身体の人にとっての精神の構造と“究極の身体”における精神の構造は、当然異なるだろうという推測の帰結になるはずです。なぜなら、“究極の身体”とレギュラーの身体では、身体の層も身体意識の層も大きく異なっているわけですから、その上にある精神の層においてだけがいっしょとは考えにくいからです。

したがって、みなさんに最初にお尋ねした「精神の中心は1つか? 多重か?」という質問の答えも2種類あるということです。

私が考えている結論は次のとおりです。

「愛こそが一番大切だ」という人がいます。また「誠実さ」が一番大事だという人もいるでしょう。さらには「正義」だ、「仁」だ、「忠」だ、「孝」だ、「礼」だ……といろいろな人がいるでしょう。これらは一体なんなのでしょう?

これらはまさに精神の「中心」のはずです。しかし、これらの中心は決して1つではないはずです。たとえば情的な精神の中心はコレ、また別のときはアレという風に、状況に応じていくつかの精神的な「中心」が存在するはずです。極端な例では、「正義」ではなく「不正」が精神の中心になっている人もいるでしょう。詐欺師などがこの例に当てはまります。詐欺師というのは善人がある日突然詐欺師になるわけではなく、たいてい若いときから嘘つきです。どうしても本当のことを人に知られたくないのでしょう。

というわけで、精神の中心になるようなものは、「愛」と「誠」のようにいいものばかりではなく、「不正」などの善からぬ事まで含めてたくさんあります。でも「不正」が精神の中心を支配している詐欺師でも、心のどこかには「人をだますことはいけないことだ」という「正」という中心も持っているかもしれません。このように精神の「中心」といえるものはじつにたくさんあって、その表裏も勘定に入れればまさに無数の「中心」があるのです。

したがって「精神の中心は多重か? ひとつか?」という答えは、精神も多重中心構造だったといえるのです。

しかし、この「精神も多重中心構造」という結論は、あくまでレギュラーの精神の話であって、身体が組織分化し、身体意識も多重中心化している“究極の身体”の精神の「中心」は、レギュラーの精神の「中心」と同じとは限りません。

では、その“究極の身体”の精神の中心は多重なのか? それともただひとつなのか? 答えを言う前にもうひとつヒントを出しましょう。レギュラーの精神は多重中心構造だったはずです。精神の中で多重中心構造ということは、中心がいくつもあってごちゃごちゃしているということです。しかも「正」と「不正」のように裏と表が同居してしまっている場合もあるわけです。いわゆる「愛憎半ばする」というのは、まさにこうした裏と表の中心が一体となってしまった典型的な状態です。精神の多重中心というのはまさにこうしたひしめき合った状態で、その連関構造の中で精神が運動しているのです。だから人は悩み、迷い、苦しむのです。

一方、“究極の身体”はどうでしょう。“究極の身体”では、身体は組織分化されて物体構造を通して機能的に連関しあうという多重中心構造になっています。そして身体意識も「センター」「丹田」etc.と多重中心化して見事に連関しあっています。そして精神は???

そうです。みなさんのご推察のとおり、究極の精神にはじつはなにもないのです。そしてそのなにもない精神のことを「無心」あるいは「無の境地」と呼んだりするのです。つまり「無心」や「無の境地」「悟り」等というのは、こうした究極の精神のことなのです。したがって究極の精神には「中心」がないのです。

だからいわゆる「融通無碍(ゆうづうむげ)」というのも、じつはこうしたなにもない精神から生まれてくるのです。なにか困ったことが起きたとき、ふつうの人はああでもないこうでもないと思い悩み、捉われたくない思いに捉われつづけ、はたまたパニックになったり、胃が痛くなったりするものですが、“究極の身体”になると「困った」とか「たいへんだ」と思うことすらなくなってしまうのです。「無心」などというとむかしの剣聖のような身体運動家ばかり頭に思い浮かぶかもしれませんが、当然のことながら精神だって同じなのです。だからおそらくマザー・テレサや仏陀(ぶつだ)のような方は、困っている人を見るとなにも考えずにまさに無心で助けたのに違いありません。

というわけで「中心」あるいは中心構造という視点からみていくと、“究極の身体”とレギュラーの身体には、精神・身体意識・身体という三層でこのように見事な違いがあるのです。

  • レギュラーの身体と究極の身体の多重中心構造
  • レギュラーの身体と究極の身体の多重中心構造
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