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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
  • ※現在は、販売しておりません。
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第34回(2008.02.24 掲載)

(前回からの続き)続・背骨

というのも、胎児はどう考えても「拘束」していません。そして生まれたばかりの赤ちゃんを観察してみると、「拘束背芯」と「拘束腰芯」が生まれる2箇所に「拘束」が見られません。実際に身体を触ってみると本当にグニャグニャで、動きを見てもまったく拘束していないタコのような動きをしています。

それがいつどこから固まりだすのか。こうした観察は非常に直接的な証明になるので、私は自分の子供たちをじっくりと観察してみました。その結果、人間は「拘束背芯」の部分から固まりだすということがわかったのです。「拘束背芯」が固まりだす前の子供というのは、抱きかかえると首がグニャグニャして落っこちてしまいます。このとき、落っこちるのは頭ではなく、首が落っこちるというのが非常に重要です。なぜかというと、首がコロンと落ちるということは、頚椎の土台である大椎より下の胸椎上部から折れ曲がるということだからです。ちなみに私はこれを「首根っこ理論」と名づけています。

そして、この大椎から胸椎上部にかけての「拘束」が発生したときに、はれて「首が据わる」というのです。そうなると両親はもちろんおじいちゃんおばあちゃんまで「首が据わったのか。めでたいめでたい」と大喜びするわけです。「拘束」が始まったのにもかかわらず……。先ほどの火事の例でいえば、ちょうど台所でてんぷら油に火が燃え移った瞬間です。それをこんなに喜んでしまうなんて、皮肉というか、たいした矛盾ではありませんか。

しかし間違いなくこの「首が据わる」という現象が、「拘束背芯」および全身の「拘束」の第一歩なのです。

そしてこのめでたく首が据わった赤ちゃんは、やがて次の段階を迎えます。それは「お座りができる」という段階です。赤ちゃんがお座りができるようになると、またまた両親、そしておじいちゃんおばあちゃんは大喜びです。しかしこの「お座りができる」ようになったとき、めでたく第一次「拘束」が完成するのです。つまり残されていた「拘束双芯」のもうひとつ「拘束腰芯」の第一段の完成です。この「拘束腰芯」ができる前の状態=「お座りができる」前は、赤ちゃんを座らせようとしても腰椎の下部と仙骨の部分から、見事にベショッと崩れてしまいます。このことは私自身が自分の子供を深く観察して確証を得ております。

そしてこの第一次「拘束」の完成後、人間はさらに拘束されていきます。その第二次「拘束」の完成がいつかというと、これもパパママおじいちゃんおばあちゃんが大喜びする「タッチ」、つまり「立つ」瞬間です。この「立つ」ことによって、人間ははれて第二次「拘束」が完成するのです。

「お座りができる」から「立つ」間には、「ハイハイ」という運動が入っていますが、みなさんもご存知のとおり、四足動物には人間のような仙骨は形成されていません。「ハイハイ」はある意味で四足動物の段階ですから、「ハイハイ」=第二次「拘束」の完成とはならないのです。

ただ、ちょっと細かい話になりますが、人が「ハイハイ」を始めるようになると、じつは「拘束背芯」の二次「拘束」が発生します。もっともこの「拘束腰芯」の二次「拘束」は、劇的な現象としては現れません。ちなみに四足動物の身体を見てみると、人間でいう「拘束腰芯」の部分よりも「拘束背芯」の部分のほうが、より強い拘束性を持っています。同じように人間も「ハイハイ」をしているうちに、「拘束背芯」の二次「拘束」が始まるのです。しかしなんといっても「首が据わる」という言葉が用意されている第一次「拘束」のあの劇的さはありません。

というわけで、「お座り」と「タッチ」によって人間はまったく「拘束」がなかった身体に別れを告げて、「拘束」への道へ歩みだすのです。これがつまり「拘束理論」から見た人の一生の始まりなのです。

  • 拘束のはじまり
  • 拘束のはじまり
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そしてこの2つの「拘束」=「拘束双芯」はまさに火事の火元と同じで、ここからどんどんどんどん「拘束」を深め、その「拘束」が火のように燃え広がって、下半身なら股関節まわり、大腿四頭筋、そして脛の側面を拘束させ、上半身では僧帽筋を固めて、肩肘を張って……と中心から末端に向かって「拘束」の火の粉が飛んでいくのです。

人間にとって拘束とはなにか?

こうしてみたとき、人間にとって「拘束」とはなんなのでしょう? 「お座り」と「立つ」ことが「拘束」の始まりなら、「拘束」がなければ人間として存在できないともいえると思います。もし、全身からあらゆる「拘束」を取り除いてしまったら、床の上に寝っころがってウナギかナマズのようにしか動けなくなってしまうわけですから、おそらく人間とはいえなくなってしまうはずです。

またいわゆる野生児のことを思い出してみてください。じつをいうと私はアヴェロンの野生児や狼少女アマラとカマラなどの野生児研究にも若い頃からずっと取り組んできたのですが、あの野生児たちにはひとつの大きな特徴があります。それは直立二足歩行をしないということです。彼らは言葉もなかなか覚えられなかったようですが、直立二足歩行は頑固なまでにしようとせず、けっきょく直立二足歩行をしないまま亡くなったそうです。ということは、彼らがふつうの人間社会に復帰するというか溶け込む前に、身体のほうからふつうの人間になることを拒否して死んでいってしまったとも考えられるのです。

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