高岡英夫「究極の身体」

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高岡英夫「究極の身体」運動科学総合研究所

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本について

「究極の身体」の目次、はしがきのご紹介。

高岡英夫の対談

高岡英夫とスポーツライター松井浩さんとの対談「トップアスリートを斬る」。(毎週金曜日更新)

ネット出版書籍連載

今では書店で購入できない高岡英夫の幻の著書「『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか」を本サイト上で掲載。さらに、続編も公開予定。(毎週火曜日更新)

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高岡英夫の経歴・著書などのご紹介。

運動科学総合研究所

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本について

高岡英夫 究極の身体

  • 「究極の身体とは?」

    運動理論のトップリーダーといわれる著者が、人体の「奥深い可能性」を解き明かす超話題作。
  • 究極の身体(からだ)
  • 講談社刊/高岡英夫著
  • 1,785円(税込)
  • A5版/並製本/320ページ/ISBN4-06-213242-7

究極の身体◎目次

新版によせて
序章 人間の身体はどこまで高められるのか
第1章 組織分化
第2章 重心感知と脱力のメカニズム
第3章 背骨
第4章 多重中心構造論
第5章 身体分化・各論
  [手]
  [足]
  [肩包体(けんぽうたい)]
  [甲腕一致(こうわんいっち)]
  [割腰(われごし)]
  [腸腰筋(ちょうようきん)]
  [割体(かったい)]
  [軸]
  [全身分化]
第6章 「究極の身体」の実際
おわりに

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はしがき

新版によせて

明日の朝、目をさまして、日々を食いつなぎ夜露をしのぐ最低限の食糧・衣類・住居以外、ほとんど何も、何も、何も、何もなくなっていたら、あなたはどう行動されるだろうか。

うろたえることは、まったくない。今日までに人類の手によって生み出された全物質財の総和よりも、はるかにあなたの身体世界は高度で、豊饒(ほうじょう)で、無尽蔵なのだから。

人には希望がある。何故なら人には唯一人の例外もなく、この一個の身体が与えられているのだから。しかしごく一握りの例外的専門家を除いて、人間は、自分の身体がどれほど高度な機能を持ち、どれほど豊かな価値をもたらしてくれる存在であるかを、知らない。

だから人は無用な道具や機械を求める。無用な情報や経験を求める。厖大(ぼうだい)な物質文明の所産を支えるために地球がすでに壊れはじめていることを知っているのに……。

筆者は、人体を地球に比肩し得る資源とみなす身体思想、「身体資源論」と、身体の高度機能の生物学的出自を論じる「運動進化論」の両者を、力強く結晶化することに努めてきた。その舞台となったのが本書である。

高い評価を受けながらも一部の専門的研究者や身体指導者の目に触れるに留(とど)まっていた本書に、このたび再び光をあてていただくことになった。その背景には、内外を問わず「人類の崩壊」を疑わずにはおれない危機的状況に対する認識の共有があったに違いない。

その意味でも、本書はいよいよ最も必要とされる時機を得たと言えるだろう。

本書によって、ますます人間の身体、そして何よりもあなた自身の身体の未来と可能性に自信を持っていただけたら、このうえの喜びはない。

2006年1月

高岡英夫


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おわりに

地球の資源がいよいよ枯渇してきたのではないかという思いは、20世紀末から強くなってきています。それと同時に、環境破壊の問題や人口の増加などがからんで、20世紀末というのは人類全体が閉塞感(へいそくかん)や焦燥感のようなものに駆(か)られていたと思います。その結果、地球全体を宇宙船「地球号」となぞらえたりして、「地球号の針路は大丈夫なのか?」という議論が頻繁(ひんぱん)に行われてきたのでしょう。このような何ともいえない不安感は、21世紀に入った今日でも少しも変わるところがありません。

こうした議論や不安にいつも伴ってくるのは、「資源」という概念、あるいはものの見方です。地球というものを「資源」としてみることはこれまでも必要だったし、これからもさらに精度を高め、アプローチする角度も、さらに豊かなものにして考えていく必要があることは言うまでもありません。

しかし、今日まで語られてきた資源論を見ていると、私はそこに大きく抜け落ちている観点があると考えるのです。その観点とは、人間の身体を地球に匹敵する資源として考える観点、すなわち「身体資源論」です。私のこの「身体資源論」は、先に上梓(じょうし)した拙著「からだには希望がある」(総合法令出版)で発表したもので、簡単に言うと「人間の身体は、発達した現代の工業技術をもってしても、まったく太刀打ちできないような精密で超高機能な運動(作業労働やスポーツなど一切を含む広義の概念)が行える、巨大な資源だ」という考え方です。

皆さんも、こう言われてみれば「たしかに人間は機械以上に高機能だ」と納得されることでしょう。でも「人類はその『資源』を使いこなして今日の文明を築き上げたのでは?」「今さら人間の身体を『資源』だととらえ直しても、何か意味があるのだろうか?」という意見も当然あると思います。

たしかに、人類は今日の文明を築くために、人間の身体を使いこなしてきたことは間違いないでしょう。しかし、その使いこなし方は、人間が本来持っている身体の能力、機能をどれほど引き出したでしょう?

普通の現代人ならば、人間の身体に秘められている運動能力のせいぜい20パーセント程度しか引き出せてはいないというのが私の推測です。

同じようなことは、脳生理学の分野でも20世紀末からしばしばいわれるようになり、「人間は巨大で複雑な脳というものを所有していながら、多くの人はどうも15~20パーセントぐらいしか使っていないようだ」という研究報告がなされています。そして「とりわけ優れた人物だけが、それ以上のパーセンテージで脳を使いこなしている」という話も出ています。

またDNAの研究でも、「現実に人間が認識している機能と対応しているDNAは、人類のDNA全体の20パーセント前後しかないようだ」と言われています。

これらの話は、先ほどの「現代人は身体資源の20パーセント程度しか使いこなしていない」という私の仮説と相通ずる話だと思います。

では残りの80パーセントはというと、人類の平均寿命であるおよそ数十年という時間を、ただ使われない身体を支えるために地球という資源を無駄に食いつくしているだけ、ということになってしまいます。

また別の視点から見てみると、拙著『からだにはココロがある』(総合法令出版)で書いたとおり、人類はなんらかの対象に働きかけて、それを変えたがる習性がある生き物なのです。これが人間というものをもっとも特徴づける習性の一つだと私は考えていて、おそらく皆さんにも共感してもらえるでしょう。この習性によって人間は、外なる対象=地球というものに働きかけ続け、物を猛烈に作り、その作った物を使ってまた働き続けるということを連綿と繰り返してきたわけです。その結果、今日のような膨大な物質文明ができあがったわけですが、その中で人類は、本来有している機能・構造のうち、脳を含めた身体の8割以上をも無用の長物にしてきてしまったのでしょう。

これほどの資源の無駄遣いが、他にあるでしょうか?

これからの人類社会は、地球という資源をより深い観点、多様なアプローチで認識し、利用していくことがさらに必要になってくるはずですが、それ以上に、60億人の一人一人に必ず一つずつ与えられた「資源」としての身体を使いこなすべき時代に入ってきているのではないでしょうか。そしてそれは時間的にのんびりできるものではなく、極めて急務だと思うのです。

また、こうした観点から文明というものをもう一度解明していくことも必要になってくるでしょう。そしてこの問題は、21世紀の初頭を基点としてこれから永続的に取り組まなければならない課題です。

本書は、そうした考え方を身体の機能という観点から微視的に解き明かしてきたものです。そして、身体という「資源」を極限まで使いこなした存在を「究極の身体」と定義づけ、「究極の身体」に到達することが、資源というまったくのっぴきならない観点から見た時に、人類が取り組むべき課題であるという、私の持論を紹介してきたわけです。

私は本書の中で、「自然への回帰」という話を書きましたが、この「自然への回帰」も20世紀の後半に多くの人から叫ばれるようになりました。それがいわゆる環境保護運動といったものに徐々につながっていき、今もそれは盛んになってきています。私はこうした流れを眺(なが)めながら、「これは重要な発想だから参加しなければ」と思い、実際に運動に参加しようかと考えた時期もありました。しかし、環境保護運動は重要ではありますが、自然回帰の課題が手つかずになっていることに、気づいたのです。

それが「身体資源論」とも結びつく「内なる自然への回帰」という考え方です。これは本書で論じてきた「運動進化論」の骨子をなす考えです。つまり、人間はある面で間違いなく自然を脱しつつある存在で、自然との対立概念としての「文化」がその証(あかし)となっています。その文化を生産し、文化を担い、文化という場において存在する人間という動物にとって、いわゆる「生老病死」という意味で自然的存在たというだけではなく、運動の進化という観点で見た時にも、人間は大いなる自然性を内側に秘めているというのが、「運動進化論」の考え方でした。

その内なる自然性=身体は、それぞれ文化に対応する役割も持っていて、文化を多様化し広げていくのは四肢であり、その多様な文化を高度化していくのは体幹部、つまり人間の身体の中に秘められてきた四足動物性、さらには魚類性というものなのです。

普段、人間が魚を見ると、彼らはまったく自然の生き物で我々人類とはまったく別の生き物だと認識しています。また野生動物を見かけた時も、我々とは別の自然の中に生まれてきた存在と認識します。でも、人間が自然そのものの存在であると認識する四足動物や魚類は、実は人間一人一人の身体の中に棲(す)んでいます。人間はそれを温存して、人類というカタチに進化して今日存在しているのです。

ゆえに、内なる自然性への回帰が、「身体資源論」の骨格をなす要因なのです。本書で説明したとおり、21世紀初頭というのは、身体資源に向かって人類が方向修正しなければいけないタイミングであり、内なる自然への回帰が求められるべき時代です。こうした時代を迎えた今、魚類や四足動物は自然に埋没した存在、他方、人類はそうではない存在、という見方ではなく、魚類や四足動物が実は我々自身の中に棲んでいるというものの見方が必要で、さらに実際に棲んでいる魚類性や四足動物性を具現化し、機能として発現させることが必要なのです。

そのことによって、人類の身体資源を40パーセントでも50パーセントでも引き出し、さらには限りなく100パーセントを目指すことが可能になるのです。言い換えれば、身体の中の四足動物性や魚類性を認識し開発することなしに、人間の身体を十全に使いこなすことはできないのです。一個人という存在の身体資源を開発するパーセンテージが高まるということは、それに留まる問題ではありません。そこにはパーセンテージの高まった人同士の関係が生じ、それは人の数だけ、すなわち60億の数だけ掛け合わせた結果を生むのです。60億人が身体資源を使って高まり高め合う社会とは、どれほどクリーンで豊かで気品ある美しい社会でしょうか。

最後にもう一点だけ触れておきたい話があります。

私は人間、あるいは人類というものに対して楽観的な見方をしています。なぜかというと、生物として人間に至った進化というものは、いくつかの問題点もあるにせよ、その重要な部分については成功したと考えられるからです。その成功した証は、過去の魚類性・四足動物性をきちんと温存しているという点です。仮に大人の平均サイズが身長170センチメートル、体重65キログラムだとすると、そのことによってそれだけの大きさをもった物体としての身体が、より高機能で多くの可能性として存在し得ることになるからです。

これがもし、現在一般の人が開発し使用している15~20パーセント程度の身体資源が、実は100パーセントだと仮定したらどうでしょう? 地球という資源はガス欠寸前。人類の身体資源も100パーセント使い切っているとしたら、夢も希望もないはずです。もっと身近な例でいえば、サッカーのW杯を観ることもないだろうし、NBAでのマイケル・ジョーダンの活躍を観ることもなかったでしょう。またマイヤ・プリセツカヤやシルヴィ・ギエムのバレエを観ることもありませんでしたし、カラヤンのコンサートを聴くこともなかったでしょう。あるいは、彼らほどの存在でなくてもそれに近い人たちのすばらしい演奏やパフォーマンスや仕事に出会うことが、まったくないということです。つまり、本当に普通に生きている普通の人たちより上の存在は一切ないという世界です。それがどれほど希望のない、暗い可能性のない、みじめな社会であるかは、皆さんも容易に想像できることでしょう(この仮定を「凡人仮説」と言います)。

私が楽観論を持っているのは以上のような理由からです。あの天才や達人たちのすばらしいパフォーマンスの数々を、我々が観ることができ、同じ仲間として享受できるのは、すなわち自分たちの中に生物としての進化の歴史が成功したカタチとして存在している証明だからです。

私はそういう意味で、人類というものを「運動進化論」という観点から広く、高く、あるいは深く精密に見ていけば見ていくほど、「人類には希望がある」「身体には希望がある」という思いを強くするのです。

本書において、こうした私の考え方がどれほど正確に、あるいは十分に論じられたかということについては、いささか心許(こころもと)ない部分もありますが、何分にも本書は「運動進化論」の著作としては第一作目なので、その不完全さについてはどうぞお許しをいただきたいと思います。身体・生物学関係のご専門の方々には、とくに本書の具体的論議の不備などにつきご指摘をいただければ幸いです。鋭意努力し、次の研究に活かさせていただきます。

なお第一作と申したように、本書はどちらかというと大部の著書ではありますが、この一冊で「運動進化論」を論じきれるものではありません。現在さらに研究を進めておりますので、近い将来第二作を発表できると思います。その日を私自身も楽しみにしておりますので、読者の皆様もどうぞ楽しみにしていてください。

なお本書がこうして形になるにあたっては、運動科学総合研究所のスタッフをはじめ多くの人々の力をお借りしました。ここに深甚なる感謝の気持ちをこめて御礼を申し上げます。

高岡英夫


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