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高岡英夫の新刊座談会

【発売たちまち増刷決定!】

高岡英夫の新刊『宮本武蔵は、なぜ強かったのか?』座談会

【座談会参加者】

高岡英夫

(運動科学総合研究所所長/
『宮本武蔵は、なぜ強かったのか?』 著者)

  • 北郷秀樹
  • 北郷秀樹さん
  • (会社経営者/
    剣道教士七段)
  • 藤田竜太
  • 藤田竜太さん
  • (自動車体感研究所
    所長/武道指導者)
  • 斎藤正明
  • 斎藤正明さん
  • (旅行会社企画担当/極意武術協会)
  • 長谷川尚美
  • 長谷川尚美さん
  • (ゆる体操指導員/
    舞台俳優)

高岡英夫の新刊座談会(2)(2009.06.16 掲載)

武蔵が言っている「道」や「天理」というのは、「技」ではなく「術」の中にこそ論理化されている

藤田 それと私にとってすごく勉強になって、自分の中の考えが深まることに繋がったのが、記号と非記号についての箇所です。驚くべきことであるにもかかわらず、考えれば考えるほど書かれてあることがまったくその通りだと思いましたし、納得してしまいました。

 私は天理、つまり武術の本当の意味でのルーツに戻っていったときに、もともと体格が良かったり、もともと強くて術とかそういうものが必要ない強者に弱者が負けないようにするために武道、武術が生まれたのではないかという考えが、もともとはあったんです。

 その過程であらゆる技術、テクニックが生まれて、ある種の天才、天分に恵まれた人にも打ち負かされないようにするのが、術というものだと考えていたんです。それがまたひっくり返って「天性」というものに焦点が当てられたときに、記号分類化された術や技というものが全否定されてしまい、結局はナチュラルの強さにまた戻ってしまうのだろうか、天理に恵まれなかった人は天理に恵まれた人に喰われる弱肉強食の世界に戻ってしまうのだろうかと、私の中で疑問となって浮かび上がってきたんです。

 結論からいえば、私の中で今までの武術という存在がグシャッと潰されてしまいました。ゆるんで立ち上がるセンターに身を任せたもの勝ちで、修行の方向性をそちらへ向けていけばいいんでしょうけど、今まで築いてきたものすべてが壊されてしまったような気がして、どう整理していいかやるせなさのようなものが残っていますね。

高岡 術と技を比べると、技の方がより記号性が高いんですね。術というのは、武蔵のいっている「道」や、さらに煎じ詰めていけば「天理」に近い論理に立つものなんです。その観点でいえば、現代の私たちが見聞きしたり体験する武道とか武術のかなりの部分が、技に重点を置いているといえますね。現代まで受け継がれている武術の中には、術に比重を置く教え方をしているところもあるので一概にはいえないのですが、武道、武術の大半は技中心になってしまっているんです。

 だから僕はそのことに充分留意しながら、武蔵の書いていることを現代に翻訳したわけです。たとえば、中国武術の不世出の天才、王向斉(おうこうさい)もハッキリ言っていたそうです。皆、套路(とうろ)をばかりやり過ぎると。もっと站樁(たんとう)を“たんと”やらないといかんと(笑)。

 王向斉にとっての站樁はあくまでも天理に近づくためのものであって、自分の中にある本源に立ち返っていく行為そのもののことだったはずですから。

武蔵のいう「斬る」というのは、アナウンサーでいえば「伝える」こと

藤田 自分は今、道場の指導者なのですが、技というものにこだわって指導してきてしまったこともあり、そのような状況で本書に出会って、ある種の罪悪感みたいなものと、自分が今までやってきたのはなんだったんだろうという虚脱感に近いものを感じてしまいました。

高岡 でもそれはある意味、この記号と非記号の話題でいえば、非常に誠実な文章の読み方といえるのではないでしょうか。『五輪書』の中に武蔵の言葉で「きる」というのがあるじゃないですか。あれは、皆さんも実際にあらためて数を数えてもらうと、こんなに出てくるのかとびっくりされると思うんですよね。あそこまで短いセンテンスの中で、あんなに「きる」という言葉が何度も何度も繰り返し使われていることにたいへん驚かれたことでしょう。

 これはおそらく私も事実体としてはわかり切っていないと思うんですよ。なぜかというと現代日本人だからです。武蔵のような時代に生き、武蔵のように実際に人を斬ったわけじゃないから、まさに読み解いていった世界だったということですね。だから、言葉を他のことに置き直して考察する必要も生まれてくるわけです。斬るということではなくて、アナウンサーだったら伝えるということなどに置き換えてみるんです。

 そうしてみると、まず第一に伝わってこないということがよく分かりますね、今のアナウンサーは。しっかりとこちらが聞く姿勢を持たないと全然伝わってこないんです。それから振り返ってみるとかつてのNHKの今福アナウンサーをはじめとしたあの時代のアナウンサーは伝わってきましたね。聞いていないのに伝わってきましたよ、しかも情報の核心がね。

 それから今度は、英語・語学でいうと、必ず通じさせようとする意志があるかどうか、どのくらい凄まじく通じ合いたい意志があるかどうかということにかかってくるんですね。初めて外国語、たとえばオランダ語が日本に伝わってきたときとか、初めて英語をしゃべる人間が日本に来たときとか、そういう異文化の出会いってあるじゃないですか。あの中で言葉がどういうふうに通じ合っていくのかということには、私はずっと関心があったんですが、そのときの原動力になっているのが、武蔵の言う「きる」なんですね。命懸けで通じさせようとすれば通じるんですよ。私も事実として、共通言語を持たない同士でのコミュニケーションを何度か体験していますけどね。

 初めての異文化の出会いで言葉が通じ合っていくプロセスというのは、もの凄いことなんだと思いますね。武蔵の「きる」というのは、その水準のことを言っているわけですよ。

藤田 私は英語が苦手だし、だからかどうか英語圏は余り好きになれないんですよ(笑)。でも外国に行ったとき、ドイツとか、中国とか、韓国とかの田舎、つまり観光地ではない英語と日本語が通じないところへ行くと、仲間たちよりも断然意思疎通する力が強くなる。普段は人が喋っているのを聞いているだけのことが多いんですけど、全然英語が通じないとなると日本語でバーッとまくしたてるわけです(笑)。そうするとなぜか、メンバーの中で一番私の言っていることが通じるんです。だから記号になってしまうと通じないんだなあというのが、体験からよくわかるんです。

高岡 うん、間違いなくそういう事実はありますよね。これはあくまでも、武蔵レベルの本質論に則って技術というものを見ていったときの話ですがね、言語活動においても。武蔵が言っている記号、非記号ということはこういうことになるでしょうね。

読み解けないことで敵愾心を持つことは、人間にとってもっとも克服しなければいけない根本的なマイナス本能

北郷 高岡先生が本書で書かれている「ふみゆする足」についてですが、映画などの真剣勝負の緊迫感の演出ではすっかり定番になっていますけど、僕らもこれをやりなさいと自分たちの剣道の師匠から言われてきたんです。それがね重大な間違いであると、本書で教えていただき「あ、そうか」とあらためて気がつかされました。それと剣を一つ振るには、足を二つ動かしなさいという教え。これは非常に大事な教えだと思うんですよ。でもなかなかできない。

高岡 それはね、足づかいのときの前足と後ろ足の意識、浮き足と軸足の意識と同じ構造ですよ。つまり普通の人というのは、前足、浮き足ばかりに意識がいってしまうんですよね。それから上半身を使う、手で突いたり、殴ったり、あるいは剣を使ったりということになると、そちらの方ばかりに意識がいってしまうんですよね。たから足は横着して、ほとんどノーコントロールの根本的な居着き状態になってしまうんです。

北郷 本当にそうですね。それとこちらも高岡先生が書かれている足運びなのですが「受けて斬ったら四歩、受けて押さえて斬ったら六歩」と。これはすごいことを教えていただきました。

高岡 「一歩一技」という世界とまったく違う世界ですね。これらの一番の違いはどこにあるかというと、ゆるんで地心に乗って立ち上がるセンターに身を任せるという状態になっているかいないかの違いなんです。その状態になっていると「受けて斬ったら四歩、受けて押さえて斬ったら六歩」という動きは当たり前のことですから、難しいもへったくれもないんですよ。勝手にできてしまうんです。足はどんどんどんどん勝手に動き、手よりもはるかに動きます。手は相手を殴るとか、突くとか、斬るなどの行為をしないといけないから、足の方がはるかによく動くんです。

 それとこのことはたいへん面白い話なんですけど、足の方が勝手に動き出すような状態になると、今度は手も勝手に動き出すんです。当然ですよね。足の方がそれだけ動きづらいんですから。やっぱり体重支えていて、地球の重力と抗力で結ばれているわけですから、それだけ制限があるんですが、その足が自由になってしまうと、手はもっと自由になるんです。

北郷 講座中の高岡先生の剣の動きを思い出すと「そういえばそうだ」と非常に納得できます。手も足も結局剣も自由自在に運動している。そうしてみると剣って凄いですね。

高岡 さきほどの読解に繋がってくる話で、本当にいけないんだなあとこれは自分自身の反省の意味を含めて言うのですが、読み解けないところがあると、人って敵愾心を持ったり、たいしたことないなあという判断になりがちなんですね。

 これはおそらくは、人と人との話でもそうだし、大きく捉えれば国と国との関係、あるいは異文化同士の関係もそうなんでしょうね。このことは人間にとって根本的なマイナスの本能であり、克服しなければいけない最たるものなんだろうなと私は常々思っていますね。

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