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高岡英夫の新刊座談会

【発売たちまち増刷決定!】

高岡英夫の新刊『宮本武蔵は、なぜ強かったのか?』座談会

【座談会参加者】

高岡英夫

(運動科学総合研究所所長/
『宮本武蔵は、なぜ強かったのか?』 著者)

  • 北郷秀樹
  • 北郷秀樹さん
  • (会社経営者/
    剣道教士七段)
  • 藤田竜太
  • 藤田竜太さん
  • (自動車体感研究所
    所長/武道指導者)
  • 斎藤正明
  • 斎藤正明さん
  • (旅行会社企画担当/極意武術協会)
  • 長谷川尚美
  • 長谷川尚美さん
  • (ゆる体操指導員/
    舞台俳優)

高岡英夫の新刊座談会(4)(2009.06.30 掲載)

武術を稽古している身として、武術で自分を磨いていって天理の道に沿うように生きていきたい

斎藤 私が本書を読んで一番強く感じたのは、武蔵が言いたかったことも結局「ゆるんでセンターを通す」、それに尽きるんだなっていうことです。やはり一番大事なことって凄くシンプルで、シンプルだからこそ、ものすごい奥深さがそこにある。日常生活でも、ぜひこの奥深い本質を大事にしていきたいと常に考えているんです。

 実際に私は仕事で子どもをキャンプに連れていくんですけど、キャンプのときに高岡先生からもいつもご指導いただいている本質、つまり「ゆる」と「センター」を出来るだけシンプルにわかりやすく子どもたちに理解してもらえるように企画しているんです。

高岡 具体的にはどういうことをしているんですか?

斎藤 必ずテーマ性を持たせて企画するようにしています。例えば、高岡先生からの古くからの愛弟子で、ゆるスキー指導者としておなじみの金子裕之さんにご指導をお願いしているスポーツキャンプでは「バランス力」、このキーワードを最重要に考えて企画します。身体と心は繋がっているので、身体のバランスが良くなれば、きっと心のバランスも良くなるし、その結果、友人関係のバランスも良くなり、さらには親子のバランスも良くなるはずという発想で教育するんです。

 金子さんは子どもの良い部分を持ったまま大人になったような人なので、非常に魅力があり、子どもたちからの人気も絶大です。私自身も何人ものプロの方について指導の訓練を受けたりしているんですけれど、やはり金子さんの子どもからの人気にはびっくりさせられます。このあたりのことが、武蔵の「天理」の話に繋がってくるのかなと思います。

 私も武術を稽古している身ですから、武術で自分を磨いていって天理の道に沿うように生きていきたいし、武蔵のように「心を広く直にして」社会を良くしていけるような人間を目指していきたいですね。

天理を全うするのに、あるいは本源に立ち返るのに、今日、一番身近にやれるのが「ゆる体操」

藤田 本書の「おわりに」のところで高岡先生がご指摘されていますが、今の世の中で人がまともに生きていくっていうことは非常に困難で、天理を全うするという意味でいえば、むしろ武蔵の時代より様々な障害があるということ。このことと我々皆が無意識に感じている生きづらさの正体というのも、結局底辺では繋がってくるんでしょうね。

 子どもは素晴らしいもの、つまり天理に恵まれているという一方で、現代の社会がその子どもたちの天理を潰しやすい、曲げやすいっていう状況がある。私も一人の親として、少しでもなんとかしたい、良くしていきたいっていう強い気持ちがあります。それは自分のためでもありますが、一方でいえば皆が生きづらいって感じているのに、世の中そのまんま変わらないっていうのはすごくストレスだし、ジレンマに陥ってしまいますからね。

 私は以前から、今の世の中って天理が崩れやすいよなっていうのを、言葉にならないモヤモヤとした気持ちとしては感じていたのですが、本書を読んで「やっぱりそうか」って腑に落ちるものがありました。でもそこから立ち返って、これはやっぱりなんとかしなきゃいけない、斉藤さんもおっしゃったように、自分が出来る範囲だけでもコツコツと努力していくしかないとあらためて気がついたんですね。そういうモヤモヤとしたものに対して、「自分自身でなんとかする」っていう方向にハッキリと決断することができたのが収穫でした。ただ道は遠いということには、絶望しつつありますけれども(笑)。

高岡 でも、やれることは遠くはないんだよね。近くにやれることはあるんですよ。もちろん、その完成形とは言いませんけど。かなりの水準までの完成形となると、道は果てしなく遠いってことになってしまいますから。けれどもやれることは、今日、一番身近なのが「ゆる体操」なんです。

 天理をまさに全うしていくのに、あるいは本源に立ち返るのに、入門、初歩的な段階でそんな難しいことを続けられるわけがないんです。そりゃ、完成形にはゆる体操だけでなく、難しい専門的トレーニング法も必要ですよ。しかし第一歩を踏み出して、二歩、三歩、五歩、百歩、二百歩というように歩いていくのは簡単なんですよ。そのための体系的なメソッドが「ゆる体操」なんです。

 それ以外のセンターの専門的トレーニング、つまり武蔵が言っている、「広い心の中にまっすぐな心を通すのだ」という部分についても、今日ではたとえ難しいものではあっても、非常に合理的なトレーニングがいくらでも開発されていますから、生きにくい、どうしようもない世の中なんだけれども、その点でいえば、武蔵の時代よりはるかに恵まれているわけです。現代には、精度の高い十分な情報があるわけですからね。だから、希望は強く持たなきゃいけないし、また持てるわけです。だったら生きている以上、天理というものを目指して生きなければもったいないと思うんですよ。

専門的にトレ−ニングしていくことももちろん大事なんだけど、その前提として「ゆる体操」で身体を徹底的にゆるめていくことが一番大事

北郷 私は、この「おわりに」の後半部分は、思わず「ウーン」ってうなってしまいましたよ(笑)。子どものことが書かれてあって、「この天理を発動することとは、剣でいえばずばり『きる』ことであり、語学でいえば、伝える・伝わる、つまり『通じる』ことに尽きるわけです」と、こう書いてありますよね。そして続けて、「その『通じる』ということを、なぜ幼児ができるようになるかというと、幼児は一心不乱に『通じる』ということを念じ続けて生きているからです」と。

 私はこの文章のところが「あー、その通りだなぁ」と、本当に身に染みたんですよ。足運びとか握りではなくて、その斬るっていうことをこの「おわりに」の最後に持ってこられたっていうのが、私にとっては深い感動でしたね。

藤田 私は「おわりに」の冒頭「人は生きるしかないのです。人は一度この世に生まれ落ちた以上、日々前に進んでいくしかないのです」っていう一文にものすごい重さを感じました。もうこの世に生まれちゃった以上、引き返せない。すごく当たり前なことなんですけど、その当たり前なことに対して、あらためて「そうだよな」って得心しましたね。

長谷川 私がとくに大事だと思ったのが、自由(やわらか)ということについて書かれた箇所です。子どもの頃は皆、天理に近く、自分の中に本当の意味での自然体とか根本原理があって、それを探していった結果、余分なものを排除していくと天理に気がつくという過程になるわけですよね。一番初めにその子どもが興味のあることとか、向いてそうな個性や資質みたいなものを、大人が邪魔しないように認めてあげるというのが、すごく大事だなと思ったんですね。

 世阿弥の『風姿花伝(花伝書)』には、十二、三歳の役者さんを「時分の花」と言い、五十代になると「真の花」が咲き、それを持続していくことがすごく大事ということが書かれているんですけれど、そのことをもう一度思い出させていただきました。それは、専門的にトレ−ニングしていくことももちろん大事なんだけど、その前提として「ゆる体操」で身体を徹底的にゆるめていくことが一番大事だということに収斂してくるんだと思うんですよ。

 能とか歌舞伎は制約を加えることで、歳を取ると舞台上で自由になるというような仕掛けを作ったと思うんですけど、そうではなくて、これからは宮本武蔵のように根本原理を押さえればいろいろな分野で、いろいろな応用が利くっていうような方向性が求められるんじゃないかと、今回の書籍で教えていただきましたね。

ゆるめ切って、そこから立ち上がる地球の中心を見つけられた人間だけが、本源に立ち返れることができる

高岡 本質力でいえば、例えばセンター、ゆるんで立ち上がるセンターですよね。一番明快で根本のところにある本質力ですけれども、要するに人類の歴史の中で見ていくと、制約する状況をこっぴっどく、非常にしんどいものとして与えることで、何人かに一人は「ゆるまないことには苦しくてたまらん」という人物が出てくるわけです。一番簡単な例は、座禅の結跏趺坐(けっかふざ)をやらせるからみんな皆、無心になれないわけですよ。痛くて、痛くて、関節がぶち壊れそうになるわけですから。でも、マイナスに見える条件というのは、じつはゆるませるための条件なんですよね。

 自分が考えている方と全く真逆の方向にいくことに気がついた人間だけが悟ることができた。つまり、ゆるんでいけばそこから真っすぐとセンターが立ち上がってくるわけです。能も元々はそうやってできあがってきた文化なんですね。昔の歌舞伎なんかもそうだったんでしょう。本来のヨガも論理としてはまったく同じ構造をしている。だから、拘束の強い文化の中で人を育てるというのは、そのような極めて逆説的な論理構造だったということです。

 武蔵は、そういう意味でいったら子どもこそ天理に最も近い存在と言っているわけでしょう。彼は「地之巻」の巻頭で言っちゃっているわけですから。武蔵の育成論でいくと、現代人は「ゆる体操」をやるっきゃないんですね。

 では、一方座禅や本格的なヨガをやる人間はゆる体操をやっちゃいけないのか、っていう話になるんですけど(笑)。例えばゆる体操を整合的に座禅の修行システムに取り入れたら、座禅らしさがなくなるんでしょうけど、考えてみれば室町時代やそこの辺りの時代の人間は、現代人よりはるかに身体がゆるんでいたわけです。今より全然考えられないほど身体が素晴らしかったんですから。だから、そもそも座禅というのは、そういう人々を前提に育ち上がってきた文化だということです。それを現代人にそのままやらせたんじゃ無理なんですよ。有理にならないんです。そこまでの視野で考察すれば、座禅にもゆる体操が必要だろうと考えていい。ゆる体操で身体をベロベロにして、1時間ぐらい徹底的にやって、それから座禅を組めばいいわけです。そうするともっと多くの人たちが真逆の方向に行けるわけです。この点では本格的なヨガの修行でもまったく同じことがいえますね。

 最初からゆるゆる、ベロベロの武蔵型でいくか、拘束、制約の強いものを押し付けて、その中で真逆の方向でゆるむことを実現していくか。でも、結局目指すゴールは同じなんですよね。ゆるめ切って、そこから立ち上がる地球の中心を見つけられた人間だけが、本源に立ち返れることができるわけですから。しかし、ゆる体操をやって専門的なセンタートレーニングした方が、間違いなく安全だし、しかも成功率も高くて早そうだね。

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