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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
  • ※現在は、販売しておりません。
  • 高岡英夫自身の講義を実況中継!
    より詳しく、より深くスリリングに
    「究極の身体」を体感してほしい

第1回 (2008.7.6 掲載)

はじめに

私はこの本に遡る約1年前に『究極の身体』という本を上梓させていただきました。この『究極の身体』という本は、人間の身体というものがどれほどにすばらしいメカニズムを持っていて、それを開発するということはいかに希望があるかということを、人間の進化の歴史、そして精密なバイオメカニズムというものを通して明らかにしていったものです。 この『究極の身体』については、多くのお誉め言葉とともに、「より多角的にさらにわかりやすく解読してほしい」という声や、「そこからさらに進んだより深く広い内容も知りたい」という声もたいへん多く寄せられています。

そこで、この2つの観点から『究極の身体』を読み解く作業をしようということで、”『究極の身体』を読む”というタイトルの講義を行いました。その講義を分かりやすい形で書物にまとめたのがこの本なのです。

したがって、この書物は原著となる『究極の身体』の内容に従い、その章立てに沿って『究極の身体』のさまざまな要因、問題点について語っています。

ですから『究極の身体』をすでにお読みの方にとっては、まさに『究極の身体』の延長線として非常にスリリングにそして楽しくお読みになれるかと思います。

一方、『究極の身体』をまだお読みになっていないという方にとっても、この本からでも”究極の身体”の世界に入っていただいて、十分読みこなせるように語っていますので、安心してこの本からお入りください。そしてこの本を通して「なるほど”究極の身体”の世界というのはおもしろい。非常にスリリングで希望に満ちた世界なんだ」と思われましたら、この本と合わせてぜひ『究極の身体』もお読みになってください。若干大部な本ではありますが、決してわかりにくい難解な書物ではありません。

さて、この本は『究極の身体』と違って、私の”『究極の身体』を読む”という講義をまとめた形式を取っていますので、著者である私自身の究極の身体に関わるような体験を折に触れて語ってあります。

自分のこれまでの人生の中のエピソード等を拾って語ることで、みなさんに共感を得てもらったり、あるいは「高岡英夫という人は、そんな体験をしたからこんな研究をするようになったんだ」と感じてもらえたりするかと思います。

またこの本は、そもそも私の講義をまとめたものですから、ところどころに講義風の語り口を残してあります。これはいい意味であえてそうした語り口が残るように努力したものですので、読者の皆さまも講義の受講者になった気持ちで軽快に読み進んでいただければうれしく思います。

なお、この本のなかで部分的に「究極の身体」を引用して、読者の皆さんの理解を助けるような工夫もしてあります。そのようなところは引用箇所を精読していただいてもいいですし、読み飛ばしてまず本文を一通り読んでいただいてから、必要に応じてコラムのような扱いで読み直していただいても結構です。

この本の原著となった『究極の身体』は、かなり大部の書籍ですので、この本で取り扱えたテーマというのは、『究極の身体』の主に前半部分に相当します。したがって残りの後半部分については、今後の講義、執筆になりますので「『究極の身体』身体が神になる」(仮題)という形でまたお届けできればと考えております。

ただしこの本は、『究極の身体』の前半部分だけといっても「究極の身体を読む」という本としてひとつのまとまった内容が形成されていますので、どうぞこの本も完成された一冊の書物としてお読みいただけたらたいへん幸いに思います。


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1時間目 序章を読む

この序章では「人間の身体はどこまで高められるのか?」ということで、原著『究極の身体』のメインテーマ、そして全容はどうなっているかという概略について紹介しています。つまり私が「究極の身体」で皆さんにお伝えしたかった、根本思想というものが次々に語られているのです。ですからどの話も非常に重要なのですが、その中からおよそ10テーマをチョイスして、読みすすめていきましょう。


20世紀はスポーツの時代

まず「20世紀はスポーツの時代」という話からしていきましょう。私を含め皆さんのほとんどが20世紀に生まれた方だと思います。もし人間の人生の長さが200~300年だとすると、世紀をまたいでいろいろな世代の方々がいらっしゃると思うのですが、むかしは人生50年。いまだって70~80年といったところでしょうから、ほとんどの方が20世紀生まれ。しかも大半の方は20世紀の半ば以降のお生まれでしょう。そうしますと、私たちはスポーツというものを当然のごとく享受し、日常的にスポーツを自ら体験したり、見たり、聞いたりして楽しんだりしてきたはずだと思います。とくにテレビというものが発達普及してからは、テレビをつければいつでも必ず何らかのスポーツ番組を見ることができるようになりました。そのなかでも驚くべきは「スポーツニュース」という番組です。他のあらゆる現代文明を見渡しても、ある特定の分野に限定されたニュース番組というのはほとんど見当たらないはずです。最近になって経済ニュースというのはいくつか見られるようになってきましたが、それでも非常にわずかです。ですから、一般的なニュース番組に対して、スポーツニュースというものが堂々と向こうを張ってあれだけの時間を取って放映されているというところに、スポーツというものが20世紀、そして21世紀に入った今日においても、いかに重要な現代文明の'装置'であるかということを感じさせるわけです。

これはこうした観察に限らず、人文社会科学者たちの統一した見解で、スポーツというのは現代文明にとって、政治、経済、軍事といったものに匹敵する一大分野、あるいは文明を構成する'装置'だと考えられています。

でもなぜスポーツなどというものが、そこまで巨大な存在になったのでしょう? 考えてみると、スポーツなどというものは身体を動かして、どちらが速いかなどということを比べたり、どちらが球の入れ方が上手か、などとやっているだけではありませんか。そのようなことが、政治や経済や軍事に匹敵するような現代文明を構成する巨大装置だと考えると、おかしなような気もしますが、これにはじつは深い理由があるのです。

その深い理由の比較的浅い部分からお話しましょう。近代とくに産業革命以降、機械が非常に発達してきて、人間の身体から直接的に生まれるエネルギー資源を生産力あるいは移動手段として利用しなくて済むようになってきました。その結果、人間の身体のエネルギー資源が解放され、それを善用するカタチでスポーツというものが発達してきたのです。あるいは逆に運動不足というマイナスの要因から身体運動を行う必要が出てきたのです。主にこれら2つの要因で、この現代文明の重要装置としてスポーツが浮かび上がってきた、というのが人文社会科学の基本的な考え方としてまことしやかに語られています。

しかし、原著をお読みになった方ならある程度感じられていると思いますが、これらの話は深い理由のなかの表面的な部分であって、もっと根本的な理由があると私自身は考えています。それは20世紀のスポーツだけを眺めていても見えてくるものではありません。むしろ20世紀のスポーツの非常に見えにくい奥底、もしくは21世紀以降のスポーツのなかにかなり見える形で具現化されてくる現象、あるいはスポーツではない人間の身体運動(その代表は現役の文化としては滅んでしまっている武術)のなかに、先ほどから私がお話している本当に奥深い理由というものが見えてくるだろうと考えているわけです。

それを各論として取り扱っているのが、他ならぬ原著『究極の身体』という書物なのです。その奥深い理由について、お話するためにも先に次のテーマに進んでいきましょう。


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人間というのはどこまで身体運動能力を高められるのだろう

次のキーワードは「人間というのはどこまで身体運動能力を高められるのだろう」です。このテーマに関しては、みなさんも少なくとも一度は考えてみたことがあるのではないでしょうか。これはスポーツ科学者たちも常に考えているテーマで、たとえば「陸上の100mは何秒まで縮めることができるのか」といったことは、20世紀中から何度も議論されてきたみんなが好むテーマです。1964年の東京オリンピックの頃には、すでに陸上の100mは何秒まで縮まるのかという議論はなされていました。私の記憶では、9秒96あるいは9秒97ぐらいはいくだろうという意見が当時一番多かったと思います。

ところが21世紀の今日では9秒8を切るような時代に入ってきていて、このことを予測できた人というのは、当時少数派だったと思います。

このようなことから考えても、「人間の身体運動能力がどこまで高められるのか」ということに対する予測というのは、非常に難しいということが分かるでしょう。でもその一方で私はスポーツ科学者やスポーツ関係のマスコミ等々が考えるような「人間の身体運動能力がどこまで高められるのか」というものの見方には、非常に大きな重要な部分を忘れられているのではないかと思っています。

というのも彼らの多くは、やはりエネルギー論からこの問題を考えているのです。つまり筋力はどこまで強くなるのかとか、筋肉はどこまで速く収縮できるのかという視点です。あるいはまた生科・生理学的に人間の心肺能力、最大酸素摂取量はどこまで増やせるのかetc.と比較的そういう見方をしてしまう傾向が強いのです。その結果、筋力は筋量に比例するので筋量はどこまでいくのだろう? といってもあまり重すぎてもデメリットがあるので…、だから100mのタイムは大体9秒○○になるという議論になるのです。

こうした予測の仕方が正しいか否かというのではなく、この議論自体が片手落ちだというのが、私のものの見方なのです。それはどういうことかといいますと、筋力や心肺機能などの視点だけだと、きわめて上手にそばを打つそば打ち職人の身体、パフォーマンスなどは、まったく論外視されてしまうからです。

私は実際に何人かの非常に優秀なそば打ち職人を知っていますが、そのなかの一人は本当に究極的なそばを打つ方です。その人が打つそばというのは、なにも人間の身体というものと無縁なところで、なにかの観念的な作用によって出来上がるものではありません。観察していればわかることですが、非常に奥深い身体の使い方、つまりまさに身体運動というものを経由することによってのみ、そのそばは生まれるわけですから、それは間違いなく身体運動能力如何の問題なのです。ということは「人間の身体運動能力がどこまで高められるのか」という質問の対象になりうる存在だということです。

にもかかわらず、スポーツ科学者やスポーツマスコミ等の多くの人たちはそういうことを考えてもみなかったはずです。ということは以下同様で、そば屋だけでなく床屋も同じ、歯医者だって家庭で日々掃除機をかけている主婦の身体運動だって、どこまで高められるのだろうという命題に値する身体運動であるはずです。だから人間の身体が関わるおよそあらゆる現象において「人間の身体運動能力がどこまで高められるのか」という質問が生まれていいわけです。そこがじつは従来の議論からはまったく抜け落ちてしまっているのです。

私は先ほど「重要な部分」といいましたが、部分なのはじつは陸上の100mのタイムのほうで、100mのタイムなどというのは人間の身体運動という大きな枠の中では、ほとんど芥子粒のような話に過ぎないのです。いうなればそれほどこの「人間の身体運動能力がどこまで高められるのか」というのは普遍的な質問だというのが私の考えなのです。

東京オリンピックの話が出ましたが、原著にも書いてあるとおり、東京オリンピックの頃、私は高校生でしたのでいろいろなことを覚えています。東洋の魔女と呼ばれた、日本の女子バレーチームのことですとか、柔道のヘーシンク対神永の試合なども印象的でした。ヘーシンクは、実に立派な選手でした。彼が優勝して金メダルが確定した瞬間、彼の仲間たちが試合場に駆け上がろうとしたのです。あの時ヘーシンクはその彼らをパッと制したのです。このことはあまり報道されたりしませんでしたが、彼のそのときの美しい毅然とした態度と余裕、まさに日本の士道というべきものがヘーシンクの行動のなかに見事に花開いたように見えたのです。

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