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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
  • ※現在は、販売しておりません。
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    より詳しく、より深くスリリングに
    「究極の身体」を体感してほしい

第18回(2008.11.04 掲載)

(前回からの続き)ビールを上手に注ぐ=“極意注ぎ”のメカニズム

でも同時に次のことにも気がついてください。すなわち究極のビール注ぎを行える人は、“究極の身体”を持っているということになるのです。なぜならビールを注ぐというのは事実としての運動なので、究極のビール注ぎの理論を現実の運動にするためには、自分の身体のなかに同じ次元の現象が起きていなければならないからです。

私は前記のとおり松井浩氏に「ビールを注ぐだけでこんなに人を感動させる人に会ったことがない」と本に書かれてしまったために、いろいろな人から「高岡先生にビールを注いでもらいたい」といわれるようになったのです。ときには2~3時間の会食中、5~6人の参加者全員にビールを注ぎつづける場合もあるのですが、そうしたときでも自分自身が一番ビールを飲んで、一番食べて、一番しゃべっているケースが多いので、私自身はいいトレーニングの場だと思っています。

しかし、このようなときに毎回同じように注げるわけではありません。会食の前に十分「ゆる体操」を行って、「軸タンブリング」(「センター」を形成するメソッド)をやりこんでくると、ビールが瓶の口からこぼれようとするまさにその一滴が、本や携帯電話などの物を手に持ってぶら下げたときと同じようにしっかりと感じられます。そこには一滴から始まって、つながっているのか離れているのか分からないほどの微妙な隙間をあけながら2滴目、3滴目がこぼれ落ち、4滴目から糸のようになってつながっていく、いとゆかしい世界が広がっていくのです。だからそういうときは、糸を太くするのも細くするのも自由自在ですし、瓶の高さも低いところから高いところまで自在に行き来させられます。

でも一方で仕事がたて込んだりして、最高のコンディションが保てなかったときは、それがビール注ぎにも現れてしまいます。こうした幅は人間なら誰でもあるもので、たとえレベルの高低の違いがあったとしてもやはり幅はあるのです。これが人間のすばらしいところでしょう。もしいつも定常的であったとしたら、なんの働きかけも意味がないものになってしまうからです。トレーニングを行っても無反応、疲れきっても無反応な身体、こんな身体になってしまったら人生はどんなに退屈なことでしょう。

これはどんなに達人・名人になっても同じです。「本当の達人になれば、コンディションの波などないはずだ」というのは、じつに人間というものの実態を理解していない人の見解です。繰り返しますが、人間というのは大なり小なり幅がある存在なのです。というわけでビールの一滴一滴がどこまで感じられて、その感じを味わえるかというのは、身体のなかの重心感知の精度によって左右されるものなのです。

ただひとつお断りしておきますが、私は「自分の身体が“究極の身体”だ」といったことはありませんし、そのように思ったこともありません。もし究極の域に達してしまったとしたら、先ほどの話ではありませんが、トレーニングを行っても無反応、無意味の退屈な身体になってしまうでしょう。そういう意味では私自身もまだまだ“究極の身体”に程遠いところにいるのです。しかし、まだ道半ばの人間でさえ、身体と意識のコンディションが抜群にいいときには、ビールを注ぐときの最初の1滴から始まって、2滴、3滴……、次々に連結関係が変化して、やがて美しくもおくゆかしい銀糸のようになっていく、というのがまるで本を掴んだりするときと同じようなたしかな実感として味わえることもあるのです。

ビール注ぎなどというものは、夏になればじつに多くの人が行っている平凡な出来事ですが、こうした何気ないことを通して“究極の身体”の世界を往還できるのです。

中心制御と末端修正

原著では、サッカーの例やテニスの例を挙げて重心感知について語っていますので、今度はそうした視点からもう一度重心感知について考えていきましょう。

ボールを扱う競技、たとえばサッカーで重心感知がより正確でなければ、30m先のゴールに、誤差10cm以内のシュートなどできるわけがありません。またテニスだったらよりピンポイントを狙わないとスーパー・ショットにはなりません。もちろんそうした選手達にも好不調というのはあって、同じ試合中にもスーパー・ショットが出たり、あるいはミス・ショットが見られます。でもゲームの進行上この1ポイントが試合を左右するというような山場になると、自分も高まり、また必要性が高まってきて、スーパー・ショットが生まれやすくなってきます。

このことからも人間にはパフォーマンスの幅、あるいは波があるというのがわかりますし、波があるからおもしろいのです。考えてもみてください。もしテニスの試合がスーパー・ショット・オンリーだったらどうでしょう。見るほうの観客もつまらないと思いますが、それ以上にプレーヤー自身がつまらなくなって、引退してしまうのではないでしょうか。そしてパフォーマンスに波が生じる別の分野を目指すことでしょう。

というわけで、偉大なスポーツ選手でも常に数センチ、あるいは数ミリの誤差は存在します。でもサッカーで誤差10cm以内のシュートを決められれば、それは紛れもないスーパー・シュートでしょう。そして肝心なのはそのときの状況です。たとえば足の角度はどうだったでしょう? これはゴールから幾何学的なラインを引けばわかります。またゴールで10cmの誤差だとしたら、そこから10m手前の誤差はどれぐらいまで許容されるのかというと、単純に1mで1cmなので10cm手前だと1mmの誤差まで許されます。また10cmで1mmの誤差ということは、ボールを蹴ったときに自分の足からボールの重心が1mm離れたときの誤差というのは1/100mmしか許されないということになります。それを不定形の人間の足を高速で動かしながら行っていると考えると、誤差10cmのスーパー・シュ-トがいかに難しいことかがよくわかると思います。

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