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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
  • ※現在は、販売しておりません。
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    「究極の身体」を体感してほしい

第12回(2008.09.23 掲載)

より筋肉らしい筋肉とは

さて、ここで一度話を整理しましょう。まず〝究極の身体〟を構成している筋肉や骨がどうなっているかという話です。それはひと言でいうと筋肉はより筋肉らしく、骨はより骨らしく、内臓はより内臓らしく、ということになります。組織を構成しているそれぞれのパーツが本来持っている性質や機能、あるいはその前提となる構造を含め、よりそのパーツらしくなるのです。したがって、〝究極の身体〟を構成している筋肉はより筋肉らしい筋肉なのです。

ではそのより筋肉らしい筋肉の性質とはどんな性質なのか。それはより柔らかくなったり、より硬くなったりする筋肉です。つまり硬くなるときはとことん硬くなって、柔らかくなるときは思いっきり柔らかいという、硬軟のコントラストが非常に激しい性質の筋肉です。

この場合、筋肉の強さとの関係がとても気になると思いますが、これは非常に大事な問題です。ひと言で〝究極の身体〟といっても、相撲取りが〝究極の身体〟を持った場合と、そば打ち職人や美容師、漆塗り職人などが〝究極の身体〟を持った場合とでは、おのずから必要な筋力が違ってきます。きめ細かな工芸品を作る名人中の名人が〝究極の身体〟に近づいたとき、体重が200kg級の相撲取りと同じ筋力があるわけがないし、必要もありません。したがって筋力というのは、より筋肉らしい性質を語るうえでの条件には入らないのです。

繰り返しになりますが、より筋肉らしいというのは、弛緩したときにはより柔らかく、一方で脳から信号が発せられたときにはより激しく筋収縮し、次の瞬間その収縮しろという信号がなくなれば、突然すばらしく柔らかくなる筋肉です。その結果、実際に〝究極の身体〟に近い人の身体に触れてみると、みなマシュマロのように柔らかい筋肉をしているはずです。また筋肉が少ない部分を見ると驚くほど骨が見事に浮かび上がる身体になっています。達人が街にあふれていた江戸時代の人々には、大胸筋上部付近のあばら骨が透けて見えるような人が多かったようです。といっても大胸筋がまったくないというのではなく、力を抜いたときに筋肉が非常に弛緩しているために筋肉が垂れただけで、同じ大胸筋の量でも大胸筋上部付近が薄く透けて見えるようになっていたのです。

たとえば葛飾北斎の「富嶽百景 飛脚」の絵を見てください。ここに描かれている二人の飛脚はある程度〝究極の身体〟に近い人物だと思われますが、この絵の左側の人物は胸がタラ~ンと垂れていますね。箱を担いでいるこの姿勢も無関係ではないでしょうが、あばらの下のほうに皺がよっていて、おそらく大胸筋上部付近はあばら骨が透けるような状態だったと思います。また全身を見渡してみても非常に力が抜けていて、各部の筋肉がプニャプニャ、クニャクニャ、クタ~、タラ~ンとしていて、そのなかで骨が泳いでいるような状態になっています。

  • 江戸時代の飛脚──脱力しきった身体
    (葛飾北斎『富嶽百景 飛脚』より)
  • 江戸時代の飛脚──脱力しきった身体
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同じような例を現代人で捜してみましょう。写真はサッカーW杯で活躍したスペインの名選手、ラウルです。非常に筋肉がクタ~としています。分かりにくいという方は、日本代表の井原選手の写真と見比べてみてください。井原選手は一見してムキムキたくましい身体をしていますね。これはまさに筋肉がいつも硬い傾向にある身体です。筋肉がいつも硬い傾向にあるということは、その人の潜在意識のなかで骨と筋肉がより分化されにくい身体をしているということです。一方、ラウルのような身体は、潜在意識のなかで分化されやすい身体といえます。

  • 筋肉と骨がパラパラに分化した身体と
    筋肉と骨がガッチリと一体化した身体
  • 筋肉と骨がガッチリと一体化した身体と筋肉と骨がパラパラに分化した身体
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もうひとつ別の例を挙げてみましょう。今度は伝説の名横綱、双葉山の写真です。この人の身体を見ると、本当にクニャクニャで、マシュマロのようだというのがよく分かると思います。そのマシュマロのような身体のなかで、骨がもっとも骨らしい働きを発揮しています。立ち方をみてもまさに骨で立っていますね。前記のアライメントの話でいえば、その狂いがもっとも少ない形で立っています。結果として無駄な筋肉を使っていないので、筋肉の脱力が進んでいます。つまり、骨と筋肉は分化されているのです。

  • 69連勝の名横綱──双葉山
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この双葉山と千代の富士、あるいは若乃花の身体を見比べてみればその結果は一目瞭然です。若乃花も千代の富士も双葉山のように名横綱といわれた力士ですが、双葉山と比べると一見して筋肉に力がみなぎっているのがわかります。

でも筋肉というのは力を入れる組織なのでは? と思う方もいるでしょう。たしかにそのとおりなのですが、すでに説明したとおり、より筋肉らしい筋肉というのは力を入れる方向だけではなく、力を抜く方向にも働ける筋肉なのです。

ではなぜ筋肉の硬軟の差が激しければ激しいほど、骨と筋肉が分化されてくるのか。それを説明していきましょう。まず骨というのはその性質が変化しません。つまり常に硬いままなのです。そこにもし固まりっぱなしの筋肉がくっついていたとしたら、どちらも硬いのでその区別がきわめてつきにくくなってしまいます。反対に筋肉が弛緩したときに非常に柔らかくなったとすると、骨は柔らかいという性質を持っていないので、そこでその性質の差異が骨と筋肉を身体のなかで分化させてくれるのです。そのうえ、柔らかい→硬い→柔らかい→硬いという変化を極端に筋肉が続けると、柔らかい/硬いというその性質の違いを、まったく一定不変の組織(骨)とぜんぜん違う性質を持ったものであると認識し、さらに骨と筋肉の分化を進めてくれるのです。

また筋肉には縮んだり弛緩したりするときに長さが変わる性質があります。(もっともじっと立っているときや、腕を曲げてぐっと力こぶを盛り上げたりするときは、等尺性筋収縮といって筋肉の長さを変えずにそのまま収縮することもありますが……。)モノを引き寄せたり押したりするとき、あるいは走るときに大腿骨をスイングさせたりするようなときは、必ずその主動筋の長さが変わります。長さが変わることによって、太さも変わります。たとえば収縮してその筋肉が短くなれば、その分筋肉は太くなって形が変わります。

一方、骨は形が変わりません。この差異でもまた分化は進みます。さらには筋肉が長さを変えるときに、隣の骨との間にずれが生じます。このずれによっても分化が進みます。

このような関係で、活動する筋肉がより収縮するときは収縮し、弛緩するときは弛緩するというその差異が大きければ大きいほど、隣の骨との分化が進むのです。

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