書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか
- 『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか - 運動科学総合研究所刊
高岡英夫著 - ※現在は、販売しておりません。
- 高岡英夫自身の講義を実況中継!
より詳しく、より深くスリリングに
「究極の身体」を体感してほしい
第31回(2008.02.03 掲載)
(前回からの続き)身体意識にとっての中心
つまり身体意識というのは、身体の内外にこのように充満しているのです。その身体の内外に数百もある身体意識のなかで、ひときわ色濃く凝縮している意識があれば、それは「中心」になるのです。だからもし身体意識というものが、混沌と広がるただの均一のガス状のものだったとしたら、「中心」は存在しなかったでしょう。ところが実際は非常に濃いところと薄いところができるのです。そのなかでもとくに凝縮した身体意識の代表が、「センター」だったり「丹田」だったりするわけです。そしてそうした濃い意識のまわりには薄い意識があって、その薄い意識のそばにはまた濃い意識があったりするという構造になっています。
というわけで、身体意識の世界は「中心」とそうでない部分というのがじつははっきりと分かれて形成されている世界なのです。しかもその「中心」というのはじつにたくさんあるのです。ではそのたくさんある「中心」がなにをやっているかというと、お互いに影響しながら補完しあって、全体として人にきわめて優れた身体運動を体現させたり、聖人と呼ばれるような格別の心境や天才と呼ぶにふさわしい頭脳労働を生み出させているのです。
身体と身体意識の多重中心構造
このように身体の「中心」と身体意識の「中心」を見てきたわけですが、ここでもう一度整理してみましょう。まず物体としての身体ですが、身体そのものには論理的にどう考えても「中心」がいくつもあります。そしてその「中心」というのは、すでに説明したとおり身体というこの物体構造を通して機能的に連関しあっているのです。一方、身体意識の「中心」もいま確認してきたようにじつにたくさんの「中心」があって、それらが機能的に連関しあってさまざまな能力を支えています。
つまり身体という層で見ても多重中心であり、身体意識という層で見てもやはり多重中心構造なのです(図を参照)。そして身体意識はたくさんの「中心」が互いに機能連関しながら身体にも影響を与えています。また身体意識というのはそもそも身体を元にして成立しているものなので、当然身体からも影響を受けています。したがって身体と身体意識はお互いに影響しあっているのです。
さて、身体と身体意識の「中心」の関係はこれでお分かりになっていただいたかと思いますが、大事なものがなにかひとつ抜けてはいないでしょうか? 身体があって、身体意識があって、もうひとつなにか……。
すでに説明したとおり、身体意識というのは非常にプリミティブ(原初的)ですから非常に身体に近い存在です。しかし意識というのは精神の別称ともいえるので、身体の層と身体意識の層の上には精神の層があるはずなのです。
言い換えれば、精神といわれるものなかの非常に下の方にある身体に絶妙に近い部分が身体意識といえるのです。そして身体意識というのは文字どおり意識なのですが、もしこの身体意識から「身体」を取り除いてただの「意識」だけにしてしまうと、物体としての身体はただのモノになってしまうでしょう。したがって身体意識というのは、このように考えられるほどじつは身体と密接不可分離な存在なのです。
だからおそらく身体論の哲学者たちは「精神としての身体」というような概念をしばしば考えてきたのです(ちなみにこの「精神としての身体」というのは市川浩氏のベストセラーになった哲学書のタイトルにもなっています)。それは、人間における身体というのは、単なる肉体ではなく、どうも肉体+α、つまり精神となにか未分の領域を持っているのではないか、という考え方です。
私はこうした思想にも非常に影響されながら、一方で拙著『だれでも「達人」になれる!ゆる体操の極意』(講談社+α文庫)などで紹介したとおり、自分自身の幼少期にまさに身体意識というものを対象として経験してしまったのです。つまり身体意識が強烈に働いている瞬間、その身体意識の形状、生々しい姿というものを認知してしまったという経験があるのです。
その後、臍下丹田というものを概念として習ったり、丹田呼吸法というものを学習していったり、あるいはスポーツの「体軸」「軸」、武道の「正中線」、クラシック・バレエの「センター」などがみな同じだということに気がついたりという経験をして、その経験を学術的に関連づけて究明していくなかで、身体論の哲学者たちが考えようとした精神と身体の未分の領域というのは、身体意識という層が占めているという考えに行き着いたのです。そして、精神と身体の両方が関わっている層として、身体意識というものを新しく学術的に定義したのです。
そしてそれはすでに説明したとおり、混沌としたまわりに対し、非常に色濃く明確に成立しているという意味で中心的な構造をしているものが多数存在して、いわばメカニズムをなしているという結論に到達したのです。私はこの点が非常に大きな発見だったと自負しています。