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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
  • ※現在は、販売しておりません。
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第36回(2009.03.10 掲載)

おわりに

人間の身体というものについて、きわめて重要なテーマが2つあると私は考えています。ひとつは地球全体という、この人間環境にとっての非常に時代的なテーマです。そしてもうひとつは「人間の身体とはなんだろう?」というテーマです。この「なんだろう」というのは、いわゆる哲学的な意味ではなく、進化論的な観点の話です。しかもその進化論とは、生体を平凡に機能する生体としてしか見ない従来の進化論ではなく、どこまでも高度に開発されうる運動体としての生体という観点からの進化論です。

私はこの2つのテーマのうち、前者を解く理論を「身体資源論」、後者を解く理論を「運動進化論」とそれぞれ定義しています。

なぜこの2つのテーマがいま重要なのか、順を追って説明したいと思います。

まずひとつ目のテーマについてお話しましょう。

地球全体の状況に関する情報について、あまりにも遅れている地域に住んでいる人々は別として、日本を含め少なくとも先進諸国といわれる国々に住んでいる人たちなら、みな一様に「生命体としての地球は大丈夫なのか?」という危惧を抱いていると思います。たとえば地球温暖化という現象は、10年前の予想よりもはるかにはっきりした形で現れてきています。それ以外のオゾン層の破壊であるとか、身近なところでは産業廃棄物の問題等々、私たちはさまざまな問題を感じて、本当にたいへんな勢いで環境破壊が進んできているということを実感していると思います。

そうした一方で、資源問題というのも深刻な事態を迎えています。環境問題と資源問題というのはある部分で共通する点がありますが、あえて別の観点に立って捉えてみると、私たちが生産活動なり経済活動なりを行うための資源を提供する地球というものが、枯渇しつつある状況にあるといえます。もっとも膨大なコストを投じて、地球の奥深くまで探索するとなにか新しい資源が見つかるかもしれません。しかしその新たななにかを獲得した価値よりもかかったコストのほうが大きければ、その資源は実際にはないのと同じですから、いままでのコストで得られるようなという経済的な条件でいえば、枯渇してきているのは明らかです。

そのうえでいわゆる南北問題、つまり地域による貧富の格差、あるいは富の集中という現象も非常に重大な問題として21世紀の宿題になっています。しかし現実はこの問題を構造化して変えがたいものにしていくような動きがどんどん進む一方です。

21世紀初頭の今日というのは、こうした諸問題を誰もが不安に思っている時代だと思います。その不安を一言でいったとき、例の「地球は大丈夫なのか?」というセリフになるのです。


私はこの時代に生まれ落ちたものとして、これらの問題を解決しなければならないと思っています。もちろん非力な自分の力で100%解決できるなどとは夢にも思っていませんが、必ずなにがしかの積極的にプラスになる思索を立てて、それをひとつの提案として社会全体に発信していきたいと考えてきたのです。

そしてそうした私がたどり着いたひとつの観点が、「身体資源論」なのです。これは簡単にいうと「身体というものをもっと肥沃な奥深い可能性のある存在として見直してみたらどうだろう」という考え方です。いままで一般的には深く考えずに「身体というのはこんなもんだ」と勝手に割り切ってしまってきた部分があると思うのですが、古今の達人・名人・天才といわれる人たちの身体も「こんなもん」というレベルだったでしょうか? 決してそんなことはなかったはずです。彼らの身体というのは平凡な人々に比べて圧倒的に優れた機能を発揮してきた事実があるわけです。

また時代的に見ていくと、わが国の江戸時代というのは、一人ひとり個々の人体が現代人に比べ非常に高機能だったということがわかっています。江戸人は現代日本人に比べ、機能する身体としての平均値が高く、より優秀な機能を発揮しながら日々暮らしていたのです。そしてその連関的な現象として、江戸という街はいわゆるリサイクルが世界最高度といえるほど発達し、非常にクリーンな社会を実現させていたのです。こうしたことは、身体が高機能化するところではクリーンな社会が成立しうるという、ひとつの歴史的事実とはっきりいうことができるでしょう。

そして古今の達人・名人といわれる人の身体を精査していくと、どんな優秀な身体でも紛れもなく人間の身体をしているのです。つまり平凡な人たちの身体も達人・名人の身体も構造的にはどこも変わらないということです。ではなにが違うかといえば、その構造を機能として発揮させるようにシステム化しているか、システム化していないかだけの違いなのです。しかもその違いだけでNBAで一時代を築き上げたあのマイケル・ジョーダンや江戸時代の剣聖宮本武蔵、あるいは中国武術の王薌齋や大東流合気柔術の佐川幸義、ゴルフのタイガー・ウッズといった人々は、あれほどすさまじい違いを機能として見せつけてくれたのです。

そしてまたその機能に値段がついたとき、マイケル・ジョーダンの身体は1年間で100億円、スポーツ選手でもっとも収入があるといわれるF1のミハエル・シューマッハの身体だと1年間で130億円にもなるのです。一方、そうしたスーパースターではない一般人の身体となると、多くの場合が僅か数百万円程度ということになるでしょう……。

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