書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか
- 『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか - 運動科学総合研究所刊
高岡英夫著 - ※現在は、販売しておりません。
- 高岡英夫自身の講義を実況中継!
より詳しく、より深くスリリングに
「究極の身体」を体感してほしい
第37回(2009.03.17 掲載)
(前回からの続き)おわりに
そういう機能の差というものがありながら、身体の構造的には両者ともまったく同じ身体をしていて、違いはあくまでその優れた機能を発揮するシステムの有無だけなのです。
ということは身体の使い方のメカニズムというものが存在するということです。そのメカニズムが明らかになってくれば、そこから必然的にそのメカニズムを開発する方法というものが成立してくるはずです。事実、その開発方法は私たちの研究によってすでに確立しつつあります。
そうした結果、人々はどうするでしょう。
身体を高度に機能させるメカニズムの知識と、そのメカニズムを開発するメソッドというものが確立してくれば、人はそれに時間をかけるでしょう。つまり自分の身体を開発するという労働を行うことよって、高機能化してくるわけです。
ただし、問題はその高機能化した身体でなにをやるか、ということではないのです。
私の「身体資源論」の真骨頂は、自分の身体を開発するというその行為自体に意義があるという点なのです。そこに人間が時間や労働を費やすと、まずその分だけ無駄なものを作らなくなります。ということは無駄に地球を開発しないということです。
人間には、開発の対象を見つけずにはいられない「開発習性」というものがあります。この他の動物にはない人類の最大の特徴である「開発習性」は、過去500年間圧倒的に地球を向いていました。その結果、人類は地球に歯を立てつづけ、掘りまくり、その掘った物体に働きかけまくってこれだけの巨大文明・物質文明を作り上げてきたのです。そのことによって地球を、ひいては自分たちを今日のようにここまで追い込んでしまったのです。
しかし、今後もその「開発習性」という人間の膨大なエネルギーをなにかに向けて消費させなければならないのです。
では、そのエネルギーをどこに向けるべきかというと、私は人類一人ひとりの自分の身体しかないと思うのです。しかもそれは非常に巨大なエネルギ-ですので、かつて講道館柔道の創始者である嘉納治五郎が唱えた「精力善用論」のような小さな「善用論」では到底足りるものではありません。
宇宙船「地球丸」とたとえられる巨大なこの地球という船が、ここまでデッドロックに陥りつつある現状においては、人類全体の方向性として「対象に働きかけ、変えたがる」というエネルギーを自分自身の身体に向かって、全員がそれを行うべきであるという考え方がどうしても必要になってくると思うのです。そしてそれこそが「身体資源論」の真骨頂なのです。もちろんその結果として労働力と時間が自分の身体の開発に費やされた分、環境を悪化させ地球を無駄に蹂躙することも減ってきます。
一方、こうして開発された身体というのは非常に高度な機能を持っていて、その高度さのなかには動きの見事さや判断力の見事さがあるとともに、じつは精神の快適さという非常に重要な要素も含まれています。つまり身心ともに高度な健康状態=高度健康性を得るということです。これらがそろったとき、人間はそのこと自体において非常に幸せになるでしょう。なぜならまさに安心立命というのにふさわしい充足したサイクルがそこに成立するからです。人は非常に美しく、安全で、健やかになり、強く、たくましく、やさしい存在としてそこに生まれ変わるのです。
さすれば、人がなにか行動をしたとき、たとえばスポーツをやったとすれば、それはすばらしいスポーツになるはずです。
「身体資源論」に則って、全人類が変わっていくのは将来のことでしょうから、その未来から過去を振り返ったとき、市民大会のバスケット競技で汗を流している人たちが「いまの僕たちぐらいのレベルのプレイヤーでも、20世紀のNBAなら神様といわれたらしいよ」という会話を楽しめるときが、いずれ必ず訪れるでしょう。
そうなったとき、マイケル・ジョーダンクラスの身体を持った未来の一般人たちが、生きるために必要な三度の食事を作ったとすれば、どんな素材を使っても人が感動するほど美味しく、しかも健康になれる料理を作るはずです。またその素材を作る農家の人などが、ジョーダンクラスの優れた身体の持ち主ならば、当然のことながら見事な野菜を作るでしょう。そうした素材を使って達人の身体を持った人が料理し、その料理をいただく人も優れた身体の持ち主であったら、その食事の美味しさを至上なものとして感じる感動力を持っていると同時に、その栄養を身体に活かしきって身体活動や精神活動においてまたすばらしい作業をしてくれるはずです。そしてその作業を誰かが享受し、それをまた誰かが享受する……。
つまり人々の間をすばらしい水準の仕事や作業が連鎖的に結ばれていって、まるで螺旋構造のように次々に高まりあっていくのです。そうなれば人と人の連鎖のなかで、すばらしい人間関係と文化と社会性が成立されていくのは明らかです。
これはまったくの夢物語ではなく、現にかつての江戸では、もちろんここまで見事ではないにせよ、ある程度はこうした考え方の参考になる社会が成立していたと私は考えています。したがって一人ひとりが自分自身の身体の開発に本気で取り組めば、江戸時代以上に地球にやさしく、しかも快適ですばらしい文化をもった社会は必ず実現されるのです。