書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか
- 『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか - 運動科学総合研究所刊
高岡英夫著 - ※現在は、販売しておりません。
- 高岡英夫自身の講義を実況中継!
より詳しく、より深くスリリングに
「究極の身体」を体感してほしい
第19回(2008.11.11 掲載)
(前回からの続き)中心制御と末端修正
ではその1/100mmのコントロールを足先で行うためには、足首の誤差はどれだけ許されるのでしょう? そして膝は? 股関節は? と遡っていくと信じられないほど細かいコントロールが要求される世界になります。もちろんこの話はかなり単純化したモデルです。実際にはボールを蹴るときの身体全体の重心が、大きく動いている場合があるので、その動きを誤差と考えるかどうかという問題が出てきます。そうなると足先は1/100mmのぶれなのに、体幹中央はもっと大きく動いているということになります。でもそうした状況でも足先はぶれないという制御があるはずです。
しかしそうした制御と同時に、一方では足先が1mmの動きに対し1/100の誤差ならば、股関節では何千分の1mmの誤差という制御も必ず行っているのです。人間には中心がずれたときでもより末端でそのずれを修正する機能も備わっていますし、末端のずれを抑えるために中心はもっとずれないようにするという操作もあるのです。けっきょくその両方の操作が重なり合っているのが人間の身体なのです。したがって、その両方の性質がより大きく強く重なり合えば重なり合うほど、より“究極の身体”に近づくのです。
その2つの性質の表れを、テニスのスイングで考えてみましょう。
グランドストロークできっちりとボールに追いついて、理想的な姿勢で打ち返すとき、このときは中心がずれていません。反対につんのめるような姿勢になりながらも、ボールにラケットが届いて、結果的には相手の選手が身動きも取れないような鋭い球を打ち返したとき、このときは中心のずれを末端修正する性質が重なり合っているケースです。しかし後者の場合でも、中心のずれを少なくして末端のずれを少なくしていくという動きは絶対に含まれています。バランスを崩したまま打ち返し、ボールがあさってのほうへ飛んでいった場合はともかく、バランスを崩しても見事な返球ができたというのは、二つの性質が大きく重なる究極の身体的な操作なくしてはありえません。
中心のずれを末端で修正するということを行うためには、身体が組織分化して各パーツに分かれていることが絶対条件になってきます。各パーツが分化しているからこそ、中心の大きなずれや乱れというものを吸収し、さらには吸収しながら中心操作をするという重なりあった制御が成り立つのであって、もし中心と末端が分化せずに一体となっていたのなら、中心のずれは末端で大きく拡大されてしまうはずです。
原著では「末端のずれを抑えるために中心はもっとずれないようにする」という中心制御の話だけを紹介しましたが、じつはその裏には中心制御と末端修正の二重制御機構というものがあったのです。(『究極の身体』52ページ、「重心感知の許容量」参照)
“究極の身体”の水準で考える脱力
原著にも「脱力とは何か」(『究極の身体』57ページ)という項目がありましたが、脱力を“究極の身体”の水準で理解するためには、これまで説明してきたとおり、パーツがバラバラに分かれその連結関係が広範囲で自由自在になるという観点がやはりどうしても必要になってくると思います。その一方で「脱力とは全身の筋肉のすべての力を抜いてしまうことではない」という観点も大事になります。
ここで声を大にして申しておきますが、私のいう脱力というのは「立てなくなるほど力を抜く」という意味ではありません。身体運動の各局面で、まさにその瞬間に身体を支える、あるいは身体運動を遂行するのにもっとも少ない筋出力で行えている状態というのが、私のいう脱力のできている状態なのです。わかりやすくいえば、ただふつうに立っているときにもっとも少ない筋出力で立っているのが、脱力した状態といえるのです。
したがって、私のいう脱力というのは筋出力をしているのです。しかしながら、スポーツや武道・武術、あるいは舞踊などのいわゆる身体運動家の方々のなかにも、こうした脱力の前提となる話がご理解いただけていない人がいるようです。でもこの点は非常に重要なところですので、このことをご理解いただかないことには議論が噛み合わないだけでなく、より真理を掴む方向に進めなくなってしまいます。ですから、読者のみなさんには改めて私のいう脱力をご理解いただき、まわりの方々と脱力について語り合うような機会があった際は、私の真意をお伝えいただきたいと思います。そうでないと大げさな話、いつまでたっても歴史が進まず、停滞しつづけてしまいます。
さて、もう一度「脱力して立つ」という話に戻りましょう。下のイラストを見てください。このイラストは重心をより感知している状態を理解していただくためのモデルです。右の図のように棒(箒)をしっかり握ってしまえば、少々棒が傾いても棒が倒れることはありません。一方、左の図のように棒を握らずに立たせようとすると、棒がわずかに傾いただけで棒が倒れ始めてしまいます。したがって棒が倒れないようにするためには、わずかな傾きを感知して基底部を棒の重心よりも先に進めて支え直す必要があります。つまりこの左の図がより重心を感知している状態だろうと思われます。
これは余談になりますが、私がなぜ「状態だろう」という曖昧な表現をしたかといいますと、“究極の身体”の人が右の図のように棒を握っている状態と、レギュラーの身体の人がドタバタしながら左の図のように棒を支えている状態を比べると、じつは“究極の身体”の人のほうが重心感知できているかもしれないからです。もちろんレギュラーの身体の人だって、左の図のようにしているときは一所懸命重心感知をしているはずです。それでも極端な話、“究極の身体”の人が両手で棒を支えているほうが重心感知できているということは、大いにありえます。
ということは、究極の身体の達人が剣を握って構えているときは、レギュラーの身体の人が左の図のように重心の追いかけっこをしているときよりも、より深く重心感知しているかもしれないということです。逆にいえばそうでなければ、剣などの武器を使った本当に優れた術技は行えないのです。そして現代でいえば、野球のバットでもゴルフのクラブでもまったく同じことがいえるのです。さらにいえばテニスのラケットも同じですし、もっと短い卓球のラケットだって同じです。もっと身近なものでいえば、包丁でも、耳掻きでも、さらには爪楊枝だって同じなのです。