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『究極の身体』を読む
身体の中心はどこにあるのか 【目次】

書籍連載 『究極の身体』を読む 身体の中心はどこにあるのか

  • 『究極の身体』を読む
    身体の中心はどこにあるのか
  • 運動科学総合研究所刊
    高岡英夫著
  • ※現在は、販売しておりません。
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    「究極の身体」を体感してほしい

第4回 (2008.7.29 掲載)

(前回からの続き)高岡はなぜ、スポーツではなくマイナーな武道なんてものをやっているの

しかしこのよう理由がある一方で、もっと深いところで自分を支配していた気持ちが別にあったのです。つまり「どうしてもスポーツをやっているときではない」と思えてならなかったわけです。私は当時から高い身体運動能力を持っていましたし、自覚的に身体のいろいろなメカニズムも発見しつつそうしたトレーニングにも取り組んでいましたから、スポーツでのパフォーマンスにもそうとうな自信があったのはたしかです。でも「自分がいまスポーツに気持ちを動かして関わっていったら、”アレ”はできない」と考えたのです。

”アレ”とは、つまり運動科学や、落ち着いて自分と向き合ってじっくり武道・武術の術技を磨いていく”あの時間のなかから生まれてくるあの豊かな産物”のことです。

そして原著『究極の身体』でも書いたとおり、21世紀になって武道・武術に世の中の期待が集まってきたときに、誰かがその古(いにしえ)の達人たちの動きを体現していなければなりません。そうでなければ、あのすばらしい身体文化もけっきょくは江戸時代のおとぎ話だったということにされてしまうからです。スポーツ界がかつての武道・武術に注目するようになり、いろいろ調べていったとき「どうもたいへんな身体運動能力が語られている」と気づくでしょう。

ものすごく分かりやすい代表例を挙げるとすれば、かの有名な宮本武蔵の『五輪書』です。私も'02年に『武蔵とイチロー』(小学館文庫)という本を上梓させていただきましたが、あの本の中に武蔵が『五輪書』の「水之巻」で説いた「漆膠(しっこう)の身」や「水を手本とし、心を水のようにするのである」という教えを紹介、解説しています。仮にあのような理がスポーツ関係者や研究者の目に止まったとしましょう。でもそれを体現する人がいなければ「漆膠の身? 相手に身を密着させるっていうけれど、そんな剣術家なんてひとりも存在しないじゃないか。けっきょく話だけだろ」ということで終わってしまいます。今日でも武蔵を流祖とする剣術の流派、二天一流を学んでいる方はたくさんいらっしゃいますので、スポーツ科学者たちがその稽古を見学しに行ったとしましょう。でもおそらく「漆膠の身」になっている人を見つけるのは困難でしょう。剣道と同じように遠い間合いのまま、固い動きでエイッ、トォー、とやっている場合がほとんどなのですから(ただし、二天一流のなかで私の指導を受けた人たちは例外ということになるでしょうが)。

東京オリンピックからすでに40年以上も経っているので、スポーツ界だってそうとう進んできています。いまから10年後にはもっとスポーツ理論も進んでいるでしょう。そうなるとかつてのマイケル・ジョーダンやサッカーのワールドカップで活躍したスーパー・スター達の身体運動のメカニズムなどが、コーチもトレーナーも分かってくれることでしょう。そんな彼らが、エイッ、トォー、なんて固い動きでやっている稽古を見たらどう思うでしょう? それこそ博物館的遺物に過ぎない、という烙印を押されてしまうはずです。

そうなると、あのせっかくの『五輪書』の価値というものがなくなってしまうではありませんか。だから誰かが武術の動きで、マイケル・ジョーダンなどよりも優れた身体運動をやって見せられないといけないのです。

私にはそのような信念があったので、好きな女の子に誘われたスキーを断ったのです。でも正直いうと、いまだにちょっと悔やまれる出来事なのですけどね。

身体運動の本質

さて、こうしたなかで大切なのは身体の本質という概念です。いわゆる精神の本質、あるいは人間存在の本質といった概念は昔からあったと思いますが、身体の本質とか身体運動の本質といった言葉はなかったと思います。でも私は身体の本質もしくは身体運動の本質というものは、精神の本質に匹敵するかそれ以上の奥深い存在かもしれないと思っているのです。もっとも精神の本質もまだ完全に解明されたわけではないし、同様に身体運動の本質も解明されたわけではないので、厳密には身体運動の本質は精神の本質以上だとはいえません。でもそのように仮定できるほど奥深い本質を、運動体としての身体が持っているのです。

そしてその身体の本質まで到達し具現化した身体を私は“究極の身体”と呼んでいるのです。みなさんもぜひこの点をご理解ください。

“究極の身体”は存在するのか?

原著にも書いたとおり、結論からいうと“究極の身体”を100%体現した人物というのはまだひとりも現れていません。ただ“究極の身体”に近づきつつある人々は、かのマイケル・ジョーダンやシルヴィ・ギエムのような人からはじまって、スポーツ、芸術の世界で散見されるようになってきています。そして私の考えでは、歴史上そうした人たち以上のところまで“究極の身体”に接近しえた人物たちがいただろうということで、宮本武蔵や真里谷円四郎といった人たちの名前を挙げてあります。彼らはいずれも過去の人です。

しかし一方で宮本武蔵という人は格別に研究する必要があると私は訴えてきたのです。それはときに彼の自画像ともいわれる詳細で非常にリアリティのある肖像画が残されていて、さらには彼の著書である『五輪書』があるからです。武蔵はこの『五輪書』のなかで、身体の使い方や具体的な心のあり方について語り、われわれに残してくれています。これは非常に大きな意義があります。さらに付け加えるなら、武蔵という人は強い武術家だったといわれています。これは歴史的にとても重要なことなのです。もし肖像画があって、詳しい身体の使い方についても記している、しかし弱い武芸者だったとしたらどうでしょう。なんの価値もありません。いろいろな説がありますが、武蔵は多ければ70回以上、少なくとも15回ほどの真剣勝負を行い、そのすべての闘いにおいて相手を制してきたという戦績があります。そのような背景があるからこそ、肖像画や『五輪書』というものに意味が出てくるのです。

宮本武蔵
宮本武蔵の肖像画。自画像ともいわれている。武蔵自らが『五輪書』で書いたとおり、水のようにゆるんだ身体が描かれている。
写真提供:(財)島田美術館

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