高岡英夫の新刊『宮本武蔵は、なぜ強かったのか?』座談会
【座談会参加者】
高岡英夫
(運動科学総合研究所所長/
『宮本武蔵は、なぜ強かったのか?』 著者)
- 荒木孝二さん
- (ゆる体操指導員
/剣道五段)
- 藤野安宏さん
- (製薬会社営業職
/極意武術協会)
- 山本昌宏さん
- (高等学校教員
/極意武術協会)
- 小竹志郎さん
- (整形外科医/
ゆる体操指導員)
- 武上良治さん
- (小児科医/
剣道三段)
高岡英夫の新刊座談会(6)(2009.07.15 掲載)
立派な姿勢、きれいな姿勢を取ることでますますゆるめなくなる
高岡 そうだよね。それでは、いよいよこの本で感じたことについて、もう少し具体的に話してもらえますか。
荒木 私は長いこと剣道をやっておりまして、一番最初に私たちが教えてもらったのは、「相手の起こりを打ちなさい」、それから「相手の技のつきたところを打ちなさい」、そして「相手が居着いたところを打ちなさい」ということなんです。
でもそれ以前に、自分自身がゆるみ切って打つという最も大事なことについては、まったく教えていただけませんでした。剣道では、まず立派な姿勢、きれいな姿勢でないと駄目なんです。でも、その姿勢を取ることでますますゆるめなくなるんです。身体のあちこちに力を入れて、腰なんかをグッと張った状態でないと、立派な姿勢はとれない。
ゆるトレーニングを始めてから、徐々にゆるめるようにはなってきたのですが、ところがいざ技を出すときの段階になると、なかなかゆるみ切れない。それが今の私の課題なのですが、せっかくゆるめてもいざという時に腰を入れて技を繰り出そうとするので、どうしても固まってしまうんですね。本書でそのことをそのまま指摘くださったので、たとえ一時的に体がゆるんでも、ゆるんだその動きの刹那にさらに徹底的にゆるませなさいというところが、まさしくその通りだな、と思いました。そこのところが肝心なところだと。これはもうこの課題を徹底して克服していこうと決意しました。
武上 私も剣道経験者なんです。剣道では、その記号的な美的姿勢が要求されますが、具体的にそれはどこかと考えてみると、体の前面がまっすぐになるように強いられるんじゃないかと思うんです。結果的に腰背部の辺りがエビ反りになることを強いられます。
一方、武蔵の背中はゆるやかに丸みを帯びているわけですよね。武蔵の姿勢と現代剣道を対比した場合だと、現代剣道は前がまっすぐになってしまっています。それは、結果としてそうなっているのではなく、初めからその形を追ってしまっている。その辻褄合わせの弊害が腰背部に及んでしまっているのだと、体でひしひしと感じます。
ゆる体操を習い始めて十数年経った今だからこそ、読んだときに意味が理解できた
小竹 私はこの「兵法心持の事」。これをかつて読んだときに、まったく意味がわからなかったんです。ゆる体操を習い始めて十数年経った今だから読んだときに、「ああ、ゆる体操と同じや」と初めてわかりました。
「其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに」というくだりも、一生懸命ずっと体ゆすってゆるめて、ゆる体操をやってきた者としては、そういうことが書いてあったのかと初めて意味がわかった喜びを味わえました。今までは武蔵の五輪書を何度読んでもまったく理解できませんでしたから。ゆる体操の体験を照らし合わせたことで、初めてその真相が見えてきたんです。それは、講座「剣聖の剣・宮本武蔵」に出て、正確にご説明いただいたことで、ますます本格的に腑に落ちたわけなんですけど。
先ほどの姿勢の問題もからめて言いますと、もう現代人は姿勢をよくしなさいと、確実に腰を反って、固めるわけです。動きの中に潜在構造としていい姿勢があるんだということ自体を、たぶんトップアスリートのコーチたちも含めて、ほとんど知らないのかもしれません。しなやかに、まさに「ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに」ゆるみながら、その瞬間、その瞬間の重力に、体との関係の中で合理的に対応できて初めて、いい姿勢って生まれてくるんですよ。私の場合は、整形外科医として外来の患者さんにも、必ずこのように説明するんです。
恥ずかしながら、まだ至らない点は多々ありますけど、患者さんに僕の体を触ってもらって、ちゃんといい姿勢というのは、常に動く中に生まれるんですと説明すると、まだかなりキョトンとされている方が多いのですが、それでもこの何年間でどんどんそれが理解されるようになってきた。
藤野 びっくりしましたもん。このことを読み解いていくと、まさに自分達が行っているトレーニングが希求している内容そのものなんですよ。
小竹 そうなんです。ぼくらの日常生活そのもの。逆に、宮本武蔵はゆる体操を知らんのにようこれ書いたなぁと思いましたね。
高岡 それは面白い感想だし、良い視点だね(笑)。
藤野 ということは、武蔵も徹底的にゆるむための方法を模索していたということになりますね。
小竹 それを探しに探し、まったくゆるめなくなった13歳以降、必死にゆる体操に代わる何かを求めていたんだと思うんですけどね。
武上 今までの『五輪書』論では、精神論に偏っているという説が多いんですが、この真意をどう解釈するかというのが大事で、心の問題だけではなく、身体論も含めた意識論と捉え、センターの論理構造と照らし合わせて解釈すると、武蔵の論に非常に合理性が高まるわけですよね。当然、我々にも役立つものになる。
うらやかな顔で人を斬るというのは、「ほどゆる」があって初めて可能となる
山本 武蔵と私達では、レベルがあまりにも違うかもしれませんけど、さきほど小竹さんが言われたように「ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし」というくだりは、我々の日常のトレーニング時に身体のあるパーツをゆるめたそばから、他のパーツがどんどん固くなってしまう自分自身への戒めと、論理的にはまったく同じじゃないかってことに気が付いたんです。
武上 本当にグッとくる一文ですよ。「心を広く直にして」「ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに」合わせた状態は、高岡先生の理論でいう「フリーフルクラム」がまさに極まった状態と、同じものではないかと思います。
荒木 山本さんは「日常トレーニング時の自分と同じじゃないか」と言われましたけど、私の場合は、ゆる体操指導中も自分でトレーニングしている時も今まで以上にもっとゆるもうと意識するようになりました。『武蔵本』を読ませていただいてから、自分の中の基準は間違いなく変わりましたね。
じつは今日もゆる体操を指導してきたのですが、自分自身が生徒と一緒に「坐骨モゾモゾ座り」一つ行っていても、「違う、もっと中や、中や」というように自分自身がもっと深い水準を求めるようになってるんですよ。以前とはまったく取り組み方が変わってしまいましたね。
山本 私は、それと「兵法の身なりの事」の最後のくだりの解説にも非常に心動かされました。平常「心」ではなく、平常「身」こそ肝要だと。そして武蔵は敵に囲まれ、斬り倒している最中や普段の食事をしている時も、うらやかに見える顔をしている、と。食事している時も、人を斬る時もうらやかな表情ができるということは、あまりにもすさまじくゆるんだ身体が基盤としてあるからですよね。
武上 これまでの高岡先生の本でも、「平常体」と「非常体」という概念がありましたが、螺旋状に高まった非常体は平常体になるということですよね。
言葉の表面だけ解釈すると、武蔵がニコニコしながら人を次々と斬り殺してるんじゃないかという解釈もできるかもしれませんが、まったくそういったものではなくて、武蔵は人を斬るということを非常に重く深く捉えているわけです。また人の生死に関してもより深いアプローチをしているんじゃないかと思うんです。従来の武蔵像の一説にある殺人鬼的、偏執狂的な武蔵像では、武蔵を理解したことにはならないし、この『武蔵本』に比べるとそのような見方は、理論的に破綻してると感じます。
小竹 うらやかな顔で人を斬るというのはどういう感じなんでしょうか。
高岡 真実は逆なんですよ。うらやかな顔で人を斬るのではないんです。そう考えるから武蔵が偏執狂に見えてしまうんです。でも実際はそうではなく、人を斬った時に顔を見たら、うらやかな顔をしていた。つまり、微塵も顔をひきつらせることなくいかなる戦いも敢行できるほどゆるみなさいと武蔵は言っているということです。うらやかな顔とは、そういうことですよ。
小竹 自分も当然斬られるかもしれない側であったわけですから、やられそうな時にうらやかな顔というのは…、すさまじいですよね。
高岡 そういう意味では武蔵より強い者が現れたときには、その人物は武蔵を斬ることができたと思うんです。そして、武蔵はうらやかな顔で斬られたはずだ、というところまで読み切らねば、武蔵の真意は通じません。
一同 なるほど。
武上 当然、武蔵の死生観にも繋がりますよね。
高岡 もちろん、その通りです。斬られる時もうらやかな顔で生き死ぬというのが、まさに彼の死生観ということですよ。
藤野 まだ、自分はその境地にはほど遠いのですが、その感じは少しだけわかります。自分自身にセンターがスパーンと通って、常に水の身体になるようにトレーニングして、環境に左右されずに自分というものを持つことができれば、どんなことにも対応できるし、やっぱり人生面白くなりますよね。
高岡 本には書いていませんが、つまりそれらは「ほどゆる」なんですよ。武蔵はもちろん「ほどゆる」という言葉は使っていないですけど、体感としてはハッキリと理解していたんだと思いますよ。人と斬りあって生き死にする時に、うらやかな顔になれるのは「ほどゆる」以外にはそのルートは無い。