ホーム > 第7回 高岡英夫の対談「トップアスリートを斬る」

高岡英夫の対談
「トップアスリートを斬る」

【文中で紹介された本】

第7回 高岡英夫の対談「トップアスリートを斬る」

  • 高岡英夫
  • 高岡英夫[語り手]
  • 運動科学者。「ゆる」開発者。現在、運動科学総合研究所所長、NPO法人日本ゆる協会理事長・推進委員。東京大学、同大学院教育学研究科卒。東大大学院時代に西洋科学と東洋哲学を統合した「運動科学」を創始し、オリンピック選手、芸術家などを指導しながら、年齢・性別を問わず幅広い人々の身体・脳機能を高める「ゆる体操」「ゆる呼吸法」「ゆるウォーク」「ゆるスキー」「歌ゆる」を開発。一流スポーツ選手から主婦・高齢者や運動嫌いの人まで、多くの人々に支持されている。大学・病院・企業などの研究機関と共同研究を進める一方、地方公共団体の健康増進計画での運動療法責任者も務める。ビデオ、DVD多数、著書は80冊を越える。
 
  • 松井浩
  • 松井浩[聞き手]
  • 早稲田大学第一文学部在学中から、フリーライターとして仕事を始め、1986年から3年間「週刊文春」記者。その後「Number」で連載を始めたのをきっかけに取材対象をスポーツ中心にする。テーマは「天才スポーツ選手とは、どんな人たちか」。著書は「高岡英夫は語る すべてはゆるむこと」(小学館文庫)「打撃の神様 榎本喜八伝」(講談社)等。高岡英夫との共著に「サッカー世界一になりたい人だけが読む本」「ワールドクラスになるためのサッカートレーニング」「サッカー日本代表が世界を制する日」(いずれもメディアファクトリー)、「インコースを打て」(講談社)等がある。

第7回 ウサイン・ボルト(08.09.12 掲載)

――今回の北京五輪で最も印象に残ったのは、ウサイン・ボルト(ジャマイカ)の快走ではなかったかと思います。100mと200mの両種目で世界新記録の金メダルですからね。オリンピック史上初の快挙です。特に100mは、最後を流しても世界新記録(9秒69)でした。

高岡 しかも、人類史上初めて9秒7を切る大記録でしたね。そこで読者の皆さんにお尋ねしたいのですが、ボルトは、なぜあのような驚異的な走りができたと思われますか。

――ヤムイモ説が出ていますね。ボルトの父親が、ジャマイカの主食ともいえるヤムイモのお陰と発言したのがきっかけのようです。また、イギリスのグラスコー大学の研究者が、ジャマイカの短距離選手の70%から体内に「アクチネン」という物質が見つかったと発表しています。この物質は、瞬発力に関係する筋肉を作り出す作用を持つそうです。

高岡 一般に、そういう即物的で分かりやすいところに理由を求めがちですね。もちろん、そうして得られた理由にも正しい場合があるでしょうが、今回のボルトの場合、ヤムイモやアクチネンのお陰だとは考えられませんね。

――ヤムイモなら、ライバルのアサファ・パウエル(5位・ジャマイカ)も食べて育っただろうし、アクチネンという物質もパウエルなら持っているでしょう。体格的にも、両者はさほど変わりません。では、いったい二人の差は何だったの? と問われると説明がつかないですね。

ボルトの驚異的な走りの秘密は、「トカゲ走り」にあった

高岡 実は運動科学的な視点から見て、今回のボルトの圧勝について明確な理由が指摘できます。まずもって、絶大なゆるみ方ですね。そして、それだけのゆるみを可能にした強大なセンター(中央軸)です。まず、この2つですね。

※センター(中央軸)とは、身体の中央を天地に貫く身体意識。『究極の身体』(講談社)の第2章「重心感知と脱力のメカニズム」(49ページ~)で詳しく解説しています。

――この連載を読まれている方や運動科学を勉強している人も、やはり、この2つが思い浮かぶでしょうね。

高岡 で、ですよ。

――やっぱり、その先がありますね。

高岡 もちろんです。今回のボルトは、そのゆるみ方がさらに進んで、センターがますます巨大になったんです。その結果、実現したのが「トカゲ走り」だったのです。

――トカゲ走り!

高岡 ここに、一枚の写真から最近の3人のスプリンターの走る姿をなぞったイラストがあります。それを見てもらうとわかりやすいですね。

  • ボルト、ゲイ、パウエルの走る姿の3者比較
  • ウサイン・ボルト/タイソン・ゲイ/パウエル
  • クリックすると拡大画像がご覧になれます。

 真ん中のタイソン・ゲイ(北京五輪では準決勝敗退)の走る姿は、全身のイメージが箱ですね。全身が直立した箱のように見えるでしょう。向かって右端のパウエルも、全身のイメージは箱ですね。ただ、タイソン・ゲイと比べるとちょっと柔らかい。直方体が3段に分かれて、少しずつずれ合いながら動いています。その分、タイソン・ゲイよりゆるんでいるといえます。では、ボルトはどうでしょうか。箱状の成分が全くないですね。上から下、下から上へというように柔らかい物体がうねっています。つまり、波動運動しているということです。これが、私の指摘するところの「トカゲ走り」なんです。

――イラストに波動運動のラインも描いてもらいました。

高岡 このイラストでいえば、向かって右斜め上空からラインが入ってきて、顔を斜めに通って喉のあたりで左側へ膨らんで、胸のあたりで今度は右方向へうねって、さらに腰のあたりから膝へ向けて左へ行きます。最後は、ボルトの右足の外側へと落ちて行きます。

――そのボルトの右足は、ずいぶん外側へ傾いていますね。

トカゲ走りのボルトは、1人だけターボチャージャーをつけて走ったようなもの

高岡 隣のタイソン・ゲイの右足が、地面に対してほとんど水平に固定されているのと比べると、ボルトの右足は外側へ傾いて垂れ下がっているのがよくわかりますね。このまま接地すると捻挫するんじゃないかとか、足に大変な負担がかかって故障の原因になるんじゃないかと思う人もいるかもしれませんね。ところが、これは静止画であって、次の瞬間には、右足の左側へうねっている波動のラインが振り返して、全身が逆方向へうねっていくんですね。ボルトの右足も内側方向へうねり、足や足首に何ら負担をかけることなく、ソフトランディングできるのです。

――足が固まって外側に傾いているのではなく、ゆるゆるにゆるんで垂れているから、写真のような状態になるということですね。そして、ボルトは走りながら、身体を波状に左右にうねらせている、と。

高岡 そうです。このように波動運動を描くことで、首も含めた体幹部全体から、うねるような運動エネルギーを生み出している。これが、身体全体を箱状にしながら走る人には出せないパワー資源なんですね。例えて言えば、同じ排気量の車の中で1台だけターボチャージャーをつけて走っているようなものです。そのターボチャージャー、つまり、身体の波動運動こそが、北京五輪でボルトが驚異的な走りをした秘密なのです。

 学問的に言えば、身体の縦軸の波動運動構造ですね。そして、その波動運動構造がトカゲの走り方と共通することから、「トカゲ走り」と名づけたのです。

――たとえば、往年のカール・ルイス(100m9秒86)は、トカゲ走りではなかったですね。

高岡 違います。少しゆるんではいるけれど、全身が箱状のスプリンターでした。ボルト(19秒30)に破られるまで200mの世界記録保持者(19秒32)だったマイケル・ジョンソンもゆるんではいましたが、箱状の人でした。つまり、今回の北京五輪で、ボルトは、スプリンターの歴史を振り返っても極めて珍しいトカゲ走りをして、しかも、それを高いレベルで体現したからこそ、驚異的な世界新記録を出したということなんです。

――このボルトは、スタート直前、何だかくねくねと身体を動かしていました。これまでの常識では、世界最速を決める大舞台の、しかもスタート直前の態度とは思えなかったですね。

スタート前のボルトのうねうねした態度が、普通の人の想像を絶するほどゆるんだ姿

高岡 そうでした。ほとんどの選手は、静止して精神統一しますよね。たとえば、日本の高校総体で選手があのボルトのような態度をとっていたら、90%以上の指導者が「何してんだ、真面目にやれ」と叱ったり注意したりするでしょうね。そう思ってしまうぐらい、うねうねうねうねしていましたよ。

――「世界を射抜く」って、ポーズまで取ってました。

高岡 でも、あれが、皆さんの想像を絶するほどゆるんでいる人間の姿なんですよ。骨や筋肉、内臓といった人間のあらゆるパーツが自由自在に動くほどゆるんでいくと、センター(中央軸)が形成されて、そのセンターが動的にうねる運動をする。すると、ダブルに重なり合ったセンターができてくるんです。身体の中央を貫いて直立するセンターでありながら、そのセンターが同時に波動運動してうねり続けるという重層構造を持つわけです。

――ジャマイカは、「体育」ではなく「陸上」が学校の科目となっているほど陸上競技の盛んな国で、しかも、坂道の多い国だそうです。選手は、幼少の頃から坂道ダッシュで鍛えるそうですが、ボルトも坂道ダッシュを練習に取り入れていますね。

高岡 ハッハッハッ。ボルトは、坂道を登ってたの? 「どういう練習をすればいいんですか」と問われたら、「坂道登り」と答えようと思っていたんですよ。坂道を登っていて、苦しくなるともがくじゃないですか。一つのもがき方として身体をくねらせるという方法があるんですね。このトカゲ走りを身につけるには、坂道登りがいい練習になるんですよ。

――かといって、誰でも坂道を登ればトカゲ走りが身につくわけではないですよね。

高岡 もちろん、天才的にゆるんでないと難しいですね。だから、本当に取り組もうと思えば、同時にゆるむトレーニングを徹底的にしないといけないです。脳の機能でいえば、小脳を中心とした大変高度な脳機能なんですね。ヒョーやイタチというのは、小脳がとんでもなく発達していて、信じられない体の柔らかさとバランス感覚があるでしょ。トカゲ走りというのも、それぐらい高度な身体運動なのです。小脳がとてつもなくゆるんで働いていないとできないですね。

今後は、トカゲ走りの運動構造を取り入れなければ、世界のトップ選手とは戦えない

――トカゲ走りといえば、日本人選手の名前を思い浮かべる読者もいるでしょうね。

高岡 末續慎吾ですね。彼が200mで銅メダルを獲得した03年世界陸上パリ大会当時、私は、末續の走りを分析して「トカゲ走り」であることを発表しています。末續は、銅メダルを獲るまでの約2年間、このトカゲ走りをしていたのです。ところが、パリ大会のレースを最後に、それ以降は箱状の走りになり、箱状のまま固まってしまいました。

――末續については、この連載の第6回で詳しく解説してもらいましたので、関心のある方はそちらを読んでもらうとして、問題は日本の陸上界全体ですね。男子の4×100mリレーで銅メダルを獲りましたが。

高岡 あの銅メダルに国民が沸いたことには、私も共感がありますよ。今の社会は原油価格の高騰でいろんな物価が上がって、国民は食べるものばかりか、遊びや趣味から自分の車に乗ることまで節約して生活しているわけでしょう。この閉塞感の中で北京五輪を見ていた多くの国民が、リレーの銅メダルで塞いだ気持ちに風穴を空けることができた。大いに沸き立った…いいじゃないですか!

――でも、強豪のアメリカもイギリスも、バトンミスで決勝には進んでいなかった。

高岡 まさに問題は、そこなんですよ。昔は、こういうのを「棚ぼた」と言ったんですから。でも、今の日本の社会状況を考えれば、私は、選手たちも指導者も、まずは国民と共に喜べばいいと思うんですよ。しかし、一瞬の間、国民とともに喜びを分かちあったら、あとは、北京五輪を徹底的、冷静に振り返らないといけないですね。スプリント競技の場合、個人で準決勝に進めたのは、100mの1人(塚原直貴)だけという惨敗だったわけですから。水泳のように個人でもメダルを取り、リレーでもメダルを取るというのでなければ、喜んではいられません。

――ボルトは、昨年の世界陸上大阪大会では、200mで2位でした。当時と今回の走りを見比べてみても、センターの強さが全然違うというのがわかります。200mの歩数も81歩から79歩と2歩も少なくなっていたそうです。

高岡 人間というのは、それだけ変わるんです。わずか1年でも劇的に変わるんですね。末續は、かわいそうだけど、悪い方向へ悪い方向へと変わってしまった。でも、真面目に陸上競技に取り組んでいる選手なら、いい方向へ変わりたいじゃないですか。これは、分野を問わず、生きている人間の全ての共感であっていいと思うんですね。そのために、心を開いて、頭を開いて勉強してほしいなあと思いますね。  たとえば、朝原(宣治)は、彼の学生時代に私が指導をしたこともあって、ずっと関心をもって見ていました。近年は、世界のスポーツトレーニングのトップシーンで、ゆるむことの大切さが言われ始めているのだから、彼も世界の舞台で活躍したかったのなら、専門的に開発されたゆるむトレーニングに取り組んでほしかったと思います。

――最近のテレビ中継では、走っている選手の顔がアップになりますが、ボルトの場合、顔の筋肉が本当にゆるゆるで揺れていました。それに対して、朝原君の顔は、残念ながら固まっていましたね。日本の陸上界も一生懸命努力しているのはわかるのですが、今一度、トレーニングの中身を問い直すことが必要でしょうね。

高岡 私は、女子マラソンのポーラ・ラドクリフが2時間15分25秒という驚異的な世界記録を出した時(03年ロンドンマラソン)も、その走りがトカゲ走りであったことを発表しています。今回のボルトと合わせて、男子100mと女子マラソンの世界最速がトカゲ走りであることが実証されたわけです。今後は、このセンターの波動運動構造が、種目を問わず、高いパフォーマンスを代表する運動構造になっていくでしょうね。特に陸上界は、この運動構造を研究してトレーニングに取り入れていかなければ、ますます世界のトップ選手との差は開くばかりだと思いますね。

※ラドクリフと末續慎吾のトカゲ走りについては、このサイトで公開している「ポーラ・ラドクリフ研究/究極の身体世界を疾走する長距離ランナー~ラドクリフの速さの秘密はトカゲ走りにあった~」「末續慎吾研究/二人目のトカゲ走り~日本にもいたトカゲ走りの勇者・末續慎吾選手~」で詳しく解説しています。

 それと一つ、日本のスポーツ界(具体的にはオリンピック委員会など)に提案したいのは、オリンピックの年ごとでいいんですが、オリンピック終了後の秋に、トレーニング方法の見本市のようなものを開けばどうかという案です。世の中には、面白いトレーニングを考案しているのに、発表の場のない人がたくさんいるんですよ。有名選手のコーチ・トレーナーやプロジェクトチームから街のトレーニング方法の発明家までが参加して、海外からの参加があってもいいですよ。そこでいいと思ったものは取り入れていけばいいし、科学者による研究発掘の場になってもいいわけだし。これからのスポーツ界は、ますます高度なレベルでの戦いになるんですから、このようにして国民の智恵を出し合って、日本の競技レベルを高めていくことが大切だと思います。

▲このページの先頭に戻る