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高岡英夫の対談
「トップアスリートを斬る」

【文中で紹介された本】

第8回 高岡英夫の対談「トップアスリートを斬る」

  • 高岡英夫
  • 高岡英夫[語り手]
  • 運動科学者。「ゆる」開発者。現在、運動科学総合研究所所長、NPO法人日本ゆる協会理事長・推進委員。東京大学、同大学院教育学研究科卒。東大大学院時代に西洋科学と東洋哲学を統合した「運動科学」を創始し、オリンピック選手、芸術家などを指導しながら、年齢・性別を問わず幅広い人々の身体・脳機能を高める「ゆる体操」「ゆる呼吸法」「ゆるウォーク」「ゆるスキー」「歌ゆる」を開発。一流スポーツ選手から主婦・高齢者や運動嫌いの人まで、多くの人々に支持されている。大学・病院・企業などの研究機関と共同研究を進める一方、地方公共団体の健康増進計画での運動療法責任者も務める。ビデオ、DVD多数、著書は80冊を越える。
  • 松井浩
  • 松井浩[聞き手]
  • 早稲田大学第一文学部在学中から、フリーライターとして仕事を始め、1986年から3年間「週刊文春」記者。その後「Number」で連載を始めたのをきっかけに取材対象をスポーツ中心にする。テーマは「天才スポーツ選手とは、どんな人たちか」。著書は「高岡英夫は語る すべてはゆるむこと」(小学館文庫)「打撃の神様 榎本喜八伝」(講談社)等。高岡英夫との共著に「サッカー世界一になりたい人だけが読む本」「ワールドクラスになるためのサッカートレーニング」「サッカー日本代表が世界を制する日」(いずれもメディアファクトリー)、「インコースを打て」(講談社)等がある。

第8回 マイケル・フェルプス(08.09.19 掲載)

――北京五輪では、陸上のウサイン・ボルトと並んで歴史的快挙を成し遂げたのが、競泳のマイケル・フェルプス(アメリカ)でした。獲得した金メダルが、バタフライと自由形、個人メドレー、そしてリレーで実に8個です。世界記録も現在4つ持っており、史上最高のスイマーと賞賛されています。テレビで泳ぎを見ていても、「超大物」という雰囲気がありました。

高岡 彼を見ていて、スケールの大きさを感じた人は多かったでしょうね。実際、プールサイドへ現れた姿も怪物のようでしたし、飛び込んでも、今回は水中映像が多かったので、あのダイナミックな泳ぎがよくわかったと思いますが、泳ぐ姿を見ても人間とは思えなかったという人もいるでしょうね。

――まるで魚でしたね。

高岡 そう感じた人も多かったと思いますね。実際、私の周りにも同じような印象をもった人が何人もいます。では、なぜ、フェルプスについてそのような印象を持ったかというと、彼の身体意識ですね。彼の身体の使い方を支えている身体意識が、かなりのスケールをもっているということです。一般の人には身体意識そのものは分からなくても、あまりに見事に形成されているものですから何かを感じるんですね。それを言葉で表現すると「怪物だなあ」とか、「魚みたい」という印象になるということです。

※身体意識とは、高岡の発見した身体に形成される潜在意識のことであり、視聴覚的意識に対する「体性感覚的意識」の学術的省略表現である。『究極の身体』(講談社)の第2章「重心感知と脱力のメカニズム/センター」(72ページ~)や『センター・体軸・正中線』(ベースボール・マガジン社)で詳しく解説しています。

フェルプスは、頭の先から足の先まで「背ビレ」をもつような身体意識が発達している

――では、フェルプスには、具体的にどのような身体意識が形成されているのですか。

高岡 この選手は、顔に「ヒレ」があります。

――ハハハ。顔に「ヒレ」ですか。

高岡 鼻のラインがあるでしょう。このラインでスパーッと水を切って進んでいく、実に強烈な感覚を持っているということです。一方、中央軸からもみごとな「背ビレ」が、頭の先から足の先までできています。

※センター(中央軸)とは、身体の中央を天地に貫く身体意識。『究極の身体』の第2章「重心感知と脱力のメカニズム」(49ページ~)や『センター・体軸・正中線』(ベースボール・マガジン社)の序章(17ページ~)、第1章「センター」(45ページ~)で詳しく解説しています。

――もう魚になりきっているんですね。

高岡 そうなんです。私たちが水中を泳ぐ魚の姿を見た時、背ビレが実に印象的じゃないですか。スパーッと水を切って進んでいく。あの背ビレを見ただけで、やっぱり魚って速く泳げるなあと感じるでしょう。それをフェルプスは、自分自身の身体で感じているんですよ。

――やはり魚自身の感覚になりきっているということですね。

高岡 これは大変に重要なことなんですが、人が速く泳ぐには、何よりもまず速く泳げるという感覚がないとダメなんですよ。ここのところが、一般の皆さんばかりか、普通の水泳選手にも理解しにくいところだと思いますが、オリンピックで金メダルを獲るような選手は、種目を問わず、普通の人に備わってないような感覚を持っているものです。そして、その感覚を支えているのも身体意識なんです。フェルプスと他のスイマーとを比べた時、この身体意識の差が、パフォーマンスやタイムの大きな差になって表れるということです。

――たとえば、'88年のソウル五輪の100m背泳ぎで金メダルを獲得した鈴木大地さんにインタビューをしたことがありますが、手の指と指の間に水かきができたと話しておられました。また、終戦直後に「フジヤマの飛び魚」と呼ばれた古橋広之進さんは、「毎日、毎日、必死で泳いでいたら、身体が丸くなって魚になった」と話しておられました。これらは、おそらく形成されている身体意識を言葉で表現したものだと思いますが。

高岡 そう考えていいでしょうね。ただ、身体意識というのは、あくまで潜在意識の話ですからね。本人が顕在意識として実感したり、言葉として表現できるのは、そのごく一部にすぎないということに注意して頂きたいんですね。古橋さんも、鈴木大地も自由形と背泳ぎで世界の頂点に立った人ですから、潜在的に形成されている身体意識は、やはり、それ相応のスケールがあります。

金メダル8個のフェルプスは、他のスイマーにないものを持っている。それが背ビレの身体意識

――オリンピックに出場しても、金メダルをもらえるのはたった一人だけですし、普通の選手は、オリンピックに出られないですからね。

 

高岡 そういう意味でいえば、フェルプスは、何たって金メダル8個ですからね。ちょっと想像しても、世界中で何百万人という人がもっと速く泳ぎたいと思って毎日水泳に取り組んでいるわけですよね。なぜ、フェルプスだけこんなにすごくなっちゃったのと考えれば、他のスイマーがもってない何かをもっているんだなということになりますよね。その一方で、彼の泳ぐ姿は、魚類に見えたという人が多い。では、なぜ魚類に見えたかということ、彼は「背ビレ」の身体意識をもっていたからですよ、ということになるんです。

――私はフェルプスには直接インタビューをしたことはないのですが、いろんな記事を読んでみると、身体意識そのものについて話しているものは見当たりません。印象的だったのは、「プールに入ると何も聞こえない。ただ前に、さらに前へ進むことしか知らない」、「レース中は何も考えていない。いかに自分らしい泳ぎをするかだと思う。試合に出て必死に泳ぐだけ。ただ、そこにあるのは『負けるのが大嫌い』という気持ちだけ」と話していたことです。

高岡 彼の発言からは、やはり前へ前へと進んでいくという強い気持ちが伺えますよね。全身に「背ビレ」の意識があると、周りの選手に比べても、飛び込んだら、サーッと泳げるのは自分だな、誰にも負けないという強烈な実感が持てるわけです。先に「人が速く泳ぐには、速く泳げるという感覚がないとダメなんですよ」と言いましたが、自分は速いという確かな感覚があって、それがない相手と体力や技術が同程度だったら必ず圧勝できるでしょ。このように説明すると、読者の皆さんも理解しやすいのではないかと思うのですが。

――「背ビレ」の身体意識を持つ選手というのは、珍しいですか。

高岡 珍しいですね。私の研究でも、フェルプスが初めてです。

――やはり、史上最高のスイマーと言われるだけのことはありますね。

フェルプスに水中から飛び出す鳥のような泳ぎのできる秘密は「肩肋分離」にある

高岡 それと、フェルプスに特徴的なのは、「肩肋分離」です。

※「肩肋分離」とは、肋骨の上で肩関節や肩甲骨、鎖骨、その周りの筋肉群などがズルズルに滑って動くように使えること。『究極の身体』の第5章「身体分化・各論/肩包体」(160ページ~)で詳しく解説されています。

――それは、バタフライの腕の動きによく表れていますね。

高岡 一番分かりやすいのはバタフライでしたね。あの人間とは思えないグワッと飛び出してくるところ。例えていうと、空飛ぶイトマキエイみたいな感じでしたね。あのまま飛んで行くんじゃないかと感じた人もいるのではないでしょうか。

――私には、まるで鳥のように見えました。

高岡 そういう印象をもった人も多いでしょう。でも、フェルプスって人間なんですよ、当たり前ですけど。基本的に私たちと同じ身体をしているわけです。なのに、なぜ、イトマキエキや鳥のように見えるのかといえば、「肩肋分離」がものすごく発達しているからと説明できるのです。たとえば、トンビがホバリング(空中静止)するのを見ていると、羽根の付け根の脇の部分が、左右の両側から空気が入り込んで、体幹部の中でつながっているような印象を受けますよ。フェルプスも、水中から飛び出す瞬間に、肋骨とその上に載っている肩関節や肩甲骨、鎖骨、その周りの筋肉群の間に空気がシュパーッと通っていくような感じになります。バタフライは、典型的に空中に飛び出す競技だから、その瞬間に鳥のような感覚もって、次の水中動作に入っていくんですね。だから、水を大きくつかめるということなんでしょうね。

――この辺りの感覚は、読者の皆さんにも自分で試して頂きたいですね。腕の動きだけに限りますが、まず、自分のバタフライの感覚で両腕を動かしてみて下さい。次に、肋骨とその上に載っている肩関節や肩甲骨、鎖骨、その周りの筋肉群の間に空気がシュパーッと通っていくような感じで両腕を動かしてみて下さい。

 まあ、フェルプスのレベルの実感とはかなり違うでしょうが、その人なりに肩肋分離を意識した時としなかった時の違いは感じられると思います。身体の使い方の話は、やっぱり自分の身体を動かしながら聞いてもらう方がいいですからね。

 さて、オリンピック中のフェルプスを見ていて思ったのは、何かボヨーンとしているという印象を受けて、プールサイドでは「ゆる体操」のような動きもよくしていました。シャキッとした感じの北島康介とは、印象が全く違いましたね。

北島が力んでしまったのはレーザーレーサーで身体を締め付けたからではないか

高岡 松井君が、そう感じたのも無理はないですね。北島は、明らかに硬くなっていましたね。水との一体感が足りなかったですよ。水の、本来もっているあのゆるみとは、ちょっとズレを感じました。もちろん、北島だけ見ると、2大会連続の金メダル2個でしょ。文句ないじゃないですか、と言いたいところですけど、1大会で8個とったフェルプスと比べるとどうなの、という疑問も出てきますよね。そう比べてみると、本当のところがよく見えてくると思います。フェルプスと北島では、ゆるみ方の質も深さも全然違っていました。

――北島の場合、100m平泳ぎでライバル視されていたハンセン(アメリカ)の調子が悪かったんですが、準決勝で若いダーレオーエン(ノルウェー)が出てきました。一方、北島自身も準決勝の泳ぎがあまり良くなかった。この連載の第3回で、北島は追い込まれるほど「緩解性意識集中」が進み、強さを発揮するというお話を聞いていましたので、ダーレオーエンが新たなライバルに名乗りを上げた時、これで金メダルは獲れるなと思いました。

高岡 そっちで勝ちましたよね。そもそもの前提条件となるゆるみの深さではなく、追い込まれた時に発揮する勝負強さですね。

――そう言われれば、テレビのインタビュー受けていた北島が、ダーレオーエンの準決勝の泳ぎを見て「ヨシッ」と言ったんですが、ゆるんでいるというより気合を入れるという感じでしたね。

高岡 私は、今回のオリンピックで北島が思いもかけないほど硬くなった裏には、「レーザーレーサー」という新しい水着の影響もあると見ています。この水着は、練習で何度も着られないぐらい身体を締め付けるでしょう。

――身体への締め付けが厳しすぎて、一人で着るのが大変らしいです。全身用だと、誰かに手伝ってもらっても30分以上かかるそうです。

高岡 オリンピックだと、そんな水着を予選から決勝まで2日間で3度も着て泳ぐ。2種目にエントリーすると、全部で6度泳ぐわけですね。そうすると、だんだん身体が硬くなってくるのも無理はないですよ。非常に身体を締め付けたうえに、動きの邪魔にならないところに硬いものが貼り付けてあるというんですけど、その構造が間違っていると思います。

――試着の時も、女性スイマーを中心に身体を締め付けるところに拒否感をもった選手が少なくなかったですね。でも、記録が出ているから、着なきゃいけないという感じでした。

高岡 身体感覚の優れた人ほど、そういう反応になるでしょうね。だから、北島も、レーザーレーサーを着て何度も泳ぐうち、特に6度目のレースとなった200mの決勝はいい泳ぎができなかったと、私は見ています。本当に北島らしからぬ泳ぎで、固まっていました。ライバルがいなくて幸いしたと思いましたね。

――ガッツポーズも硬かったですね。

高岡 狙っていた世界新記録がでなかったということもあるだろうけど、本人の実感からしても、目指した泳ぎとは違うと思ったんじゃないでしょうか。北島も身体感覚のすぐれた選手ですからね。

――レーザーレーサーが話題になった時、北島は「水着ばかり注目せず、泳ぎそのものを見てほしい」と話していました。

理想の水着は、魚鱗構造。魚のウロコのような水着が開発されれば皆が幸せになれる

高岡 北島ほどの身体感覚があれば、当然、そういう反応が出てくるでしょうね。そこで、メーカーのために提言しておくと、最高の水着は何かといえば、魚鱗構造ですよ。ウロコなら全く身体を締め付けないし、お互いにずれ合って自由に動く。相当に開発は難しいだろうと思いますけれど。

――先生、メーカーに向けたお話というのも珍しいですね。

高岡 たまには、メーカーへの提案も言わせてよ。私は、ゆるむことこそが、人間にとっての幸福であり、最大能力を発揮できる条件だと考えているんですね。ところが、レーザーレーサーは、ゆるむことを邪魔するわけですよ。人間の能力の大前提を邪魔しながら、世界記録を出させるものですね。だから、水着を開発するのなら、ゆるむことを促進するような水着を開発してもらいたいのです。

 魚鱗構造の水着なんて、それを全身につける選手が現れたら、まさに人魚ですよ。水着の中で選手は魚のようにゆるむから、選手は泳いでいても幸せです。しかも、水の抵抗を軽減されて速く泳げるわけですから、記録もよくなる。泳いでいる選手も幸せ。そして、見ている方も、選手ほどではないにしても幸せな気持ちになるでしょう。スポーツというのは、参加する選手も、見ている観客も幸福感を感じないと意味がないですよ。大事なのは、辛さやそれを乗り越えた達成感よりも、幸福感こそが大事ということですよ。アテネ五輪で北島が言った「超気持ちいい」っていう感覚ですよね。気持ちいいとは、幸せなことそのものだもの。勝ったぞと言わなかったところが、素敵なところです。

 日本の水泳界というのは、全体的にとてもうまく様々なことが展開できていると私は思っています。ゆるんでいる人が多くて、それぞれに面白い発想をしながら、同時に共存しながら発展している。各地のスイミングスクールも、本格的に世界のトップを狙って育成しているじゃないですか。ローカルにして、世界を狙っているわけでしょう。それだけに、水着メーカーにも、競技者の幸せ、それをサポートする人の幸せ、そして、見る人の幸せというものを念頭に置きながら、水着を開発してほしいと思っているのです。

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